昭和の<はずみ>効果について

なんか当たり前のことばかり書いて、後で自分で読み返すと、わが思考そのものが停止、あるいは停滞していると自覚せざるを得ない状況を認識する。思考の延長性、伸展性、アイディアに新しさがない、そういう事態を老いによる劣化とみる自分とみたくない自分もいる。


筒美京平さんが亡くなった。追悼文の類いはおびただしく出ているので書かない。その追悼文を読んでいて、新しい見方をしているものがあって、なるほどと思った。筒美さんが作曲家デビューにあたって、洋楽盤の新譜を購入して聴きまくった、というエピソードで、当時のアメリカで流行っていたフラデルフィアサウンドに和製ポップスとの親和性を感じ、取り入れていたというのだ。


ブルーライトヨコハマ』、『また逢う日まで』、『魅せられて』という代表曲には洋楽聴きまくりの成果がちりばめられている、そういう分析になるほどと思った。それが日本人だけでなく、アジアにも和製のポップスの新しい地平を拡散していった。


和洋同魂というような大げさを言わないけれど、上記の代表三曲に象徴されるけれど、どの曲もイントロが長くて、どの曲もそれぞれ別な新しいリズム&ソウルに満ちている。決して和製ではないのである。当たり前ながら、日本人が新しい何事かを表現するにあたり、洋に<はずみ>を得ていると言うことなのだと思う。音楽がそうであるならば、文学でも欧米文学を読みあさった後、書き始めた村上春樹の汎用性向も同様なのだと実感する。


昭和という時代はそういう<はずみ>による成功に満ちあふれていた。