懐疑と叡智

<懐疑は、恐らくは叡智の始かも知れない、然し、叡智の始まる處に藝術は終るのだ、・・・by アンドレ・ジイド>というのは、小林秀雄の随筆集『様々なる意匠』の巻頭に置かれた惹句だ。


PCのトラックパッドが私同様、経年劣化の兆しが見え始め、日産8000字打ち込むわが作業に支障をきたすようになったので、本日、無線のマウスを購入しに、ビッグカメラへ。


PC、i-pod(携帯音楽再生機)、そしてiPhone4種も含めてわが生涯においてapple社にいかほど注ぎ込んできたか。80年代のMac遭遇以降、MacPCだけでも9台買い換えているから、そして当時のPCは、ましてやMacそのものが1台1台、すべからく高額だったから、2000万円はいかないまでも1500万円ほどは貢いだことは確か。


これに加えて、Macでしか使えないソフト(アプリと最近いうようになった)、グラフィック関連のAdobe社のソフト、編集ソフトQualkXpress、それから当時はフォントを数種類使っていて、いずれも高価なものが多く、数百万円は費やしたと思う。首都圏のどこぞの新築一戸建ての頭金には十分な価額だと思う。


トラックパッドの劣化に過ぎず、本体のMac Book Pro もすでに8年間の長きにわたり、わがハードデイズをともにしてきたから、経年劣化は当然の帰結。そろそろ新機種への買い換えの時期なのかと思う。そんなことをチラと考えつつ、Appleのサイトを覗いたら、<Mac の向こうから>というシリーズ動画があり、これにすっかり魅入ってしまった。

 

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で、なぜか、私の<Mac の向こうから>届いたイメージは、アンドレ・ジイドの惹句を引用した小林秀雄の想念、懐疑は叡智の始まり、にたどり着く。昭和38年の文庫版、発行元はと見れば、今をときめく新潮社だ。活字が見事に紙を圧して刷られている、活字文化の象徴としての、まさしく懐疑が懐疑たり得て、叡智に至り、叡智をわがものとした瞬間から藝術の終わりが始まるなどという想念をありがたく繰り広げていた時代。


今は、<懐疑は、検索という名のエンジンを起動すること>であり、叡智というものに遭遇できるかどうか、微妙ではないか、というのが私の<Mac の向こうから>。