Seek And Found

懸案の、南信州への<旧盆帰省>を無事過ごすことができ、その前後には東京地方もしのぎやすい気候があったものの、先週来の酷暑ぶり返しにはどんな健全な身体および精神を持ってしても、抗う仕方はただ冷房の恩恵に浴するのみ。


7月に続き、8月も印象としては酷暑だった。その8月も今日で終わり、どうやら、明日以降秋雨前線の影響で、気温としてはしのぎやすくなるという予報。来週半ばの台風が厄介であるような予感はするが。


で、この8月を振り返ってみると、私は一つのテーマをことさらに頭の中でリフレインしながら過ごしてきた。手前味噌になるが、このテーマ、リフレインはわれながらうまくいったと感じている。


テーマは<シーク&ファインド>である。なあ〜んだ、それか、と指摘されるのは承知の上である。<シーク&ファインド>とはおおよその人の、人生におけるありふれたテーマであり、かつ、営みの核心的な手順みたいなものだからだ。


このありふれたテーマ、手法といってもいい、これをにちょっと挑戦しようと思い立ったのは堀江敏幸氏の『その姿の消し方』(新潮文庫)を月初めから携えていたからである。二百ページに満たない短い小説だが、一つずつのセンテンスを読み流してしまうと、ことの顛末を理解できなくなってしまう、そういう濃密にして端正なセンテンスが続く。


フランスの古物市で入手した一枚の古い絵はがき、消印は1938年6月15日、A.Lという男からN.Dという女性に当てて出されたもの。ここから<シーク&ファインド>が始まる。優れたミステリを読み始めた気分だったが、次第に自分が<姿を消すプロセス>、つまりは21世紀のこの時期に生息する私(これは自分のこと)がこの先、どうやって姿を消す、つまりは、どのようにこの生を終え、世の中から姿を消していくか、を常に想像しつつ、読み進めることとなる。


読み始めのミステリ感覚から、読者である私が自らの<消え方>を想像する旅に出るところ、これが<シーク&ファインド>をあらためて意識させられる、そういう小説であり、読書体験だった。


『その姿の消し方』の二度目の読み進めをしたのは、南信州行きの往路のバス車内、隣に座った大学生と思しき若者が、分厚い文庫本を渾々と読み進めるのを意識して読み始めた、珍しい体験。


帰路のバスの隣席は小学2年生の男の子、通路を挟んだ隣席に座る母親に命じられ、夏休みの課題作文を専用ノートにしたためる作業、このバスはだいぶ前に発生した事故による渋滞に巻き込まれ、新宿到着まで述べ7時間を要した。この男の子は八王子あたりで作文を完成させ、それから2時間ほど渾々と眠っていた。珍しい体験。


この男の子に刺激された訳ではないが、私はノートに私なりの<シーク&ファウンド>のためのメモを。私はフランスへは一度も行っていない。古物市で買い物をしたこともない。端緒は、5年前にノートに記したメモ。そこから<シーク&ファウンド>をしているうちに、あっという間に新宿に着いてしまった。


新宿バスタのトイレで、小学2年生の男の子と一緒になった。これから、私などより圧倒的に長い<シーク&ファウンド>をしていく彼に、声こそかけなかったけれど、表情で「元気、でな」っと。


これで<シーク&ファウンド>終わりではなかった。『True Detective』と『The Bridge』のそれぞれシーズン1とシーズン2と遭遇。前者はアメリカ片田舎の警察署が舞台、後者はスエーデンとデンマークの両国の警察官が合同捜査するというもの。何かの縁でこの2作品と出会え、幾重にも<シーク&ファウンド>が重なり、熱されたわが頭の中を、何か言葉にならないものが木霊のように乱反射している。これは8月を終えても、ああ、そこまで来ている9月にもなだれ込み、別な形で、<シーク&ファウンド>が続く。