舟を漕ぐ

ようやくにして、『引き揚げ三部作』(後藤明生著)を読み終え、本日、あらためて青山三丁目の<青山ブックセンター>まで足を伸ばし、待望の堀江敏幸著『曇天記』を購入、もとの道にたどり着きました。もっとも、この間に半日かけて『久米宏です。』(久米宏著、世界文化社)を読み終えているし、『引き揚げ三部作』を読み終えるのに、ザ・ベストテンニュースステーションの時代を感得することが必要だった、との印象もある。


そうこうしている間に、西城秀樹星由里子らのわが世代にとってのビッグネームの訃報に接する(の、が多い、のの多用、連用との指摘がわがテキストエディットでピーピー警告されており)、星由里子が澄子役で登場の作品で、父親役をしていた有島一郎という役者のイメージが噴出してくる(ああ、やはり書き言葉では、接続詞のは重要)。


昭和を語る、とかいうくくり方が大流行だが、どうもその<昭和>というのは、昭和30年代から平成の初めにかけてのことを言うらしく、釈然としない。昭和一桁から20年まではちょうど今の世の中のような時代が勃興し、昭和20年8月9日以降は『引き揚げ三部作』で描かれるような<空虚>が横溢した時代で、そのいずれをも含めての時代が昭和という総体で、とてもではないが語り尽くせるものではない、はず。


最近(これは平成20年代から今年までを限定するのだが)、これほど書評に取り上げられる新刊は珍しい、『曇天記』。いやな空気や、いやなニュースに接するよりは高邁な曇天世界に漂うべく、逃げ込もうと思う。久米宏が最後の一行で述べていた。<乗りかかった舟は漕がなければならない>。