滑稽について

「地獄の2月」がついに到来した。次には「修羅の3月」が待っており、さらに悪鬼羅刹な4月、魑魅魍魎な5月、混沌としか表現のしようのない6月が続き、一隅の光も見出だせないまま、兵どもが夢のあとな7月となるのだろう。早く8月になって欲しい、・・・、と例年思ってやり過ごしてきた、が、昨今は、そんな大それた思い上がった<やり過ごし方>など思ってもみない、日々好日、である。

最低気温が氷点下になる東京で寒さを愚痴ってみても、日本海側や北海道で過ごす冬を想像すれば、せんかたないのであり、最高気温が20度を超す月曜日なんぞを体験してみれば、暦というものに気候がおいついてきたのか、もほや春と思い、息吹を感受していくことの喜びを味わった方がいいとさえ思う昨日今日であります。

今年は、昨年暮れ思いついて<教科書>を携えた日々を送っており、その教科書とは大江健三郎『定義集』(朝日文庫)であります。72編のエッセイが収められた評論的エッセイ集、1編1編を丁寧に読んでいると、今日言われている<情報>とは異なる、本来の意味を持つ<情報>や、その<情報>がもたらすヒントに巡り会えるわけで。その<情報>や<情報>がもたらすヒントに触発されて個人的にわいてくるものを追い、そのラインを自分流に脇道をたどっていく、そんな試みを自らに課して、日々を送る、そういうことなのであり。

3つめの文章にある『滑稽を受容することとその反対』を読むと、あら不思議、1月20日以降の世界観に大いに隣接するテーマが見事に読み解ける図式が浮かび上がってきます。義弟である伊丹十三との邂逅、『世界滑稽名作選』やら、そして中野重治著作を通じて、<滑稽>について語るわずか3ページほどの文章ですが、そこからこぼれ落ちたり、にじみ出たり、わいて出てくるイメージは一筋縄ではいきません。

ま、いろいろ、あった、のですが、個人的に映画『グランド・ブダペスト・ホテル』に行き着いたことに大いに満足しています。3年ほど前の作品ですが、<やむを得ぬ滑稽と、それを受け止めようとする心、そしてその逆の残酷。滑稽であるほかない窮境にある者を、さらに残酷さの縁に落とすか、人間らしい崖っぷちへ引き戻してやるか>という滑稽試論にジャストミートな佳品に出会えたことで、滑稽は人に喜びをもたらす、などとジョージ・オーウェル『1984年』とは遠いところで思ったりしております。