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トドのつまり

エイプリルフールの日の夕刻、体調を崩したから、ほぼ一ヶ月半にわたる安静生活を送り、先週末から<通常生活>に戻る。何が安静で何が通常かは不明ながら、なにやら懐にダイナマイトを抱えた気分で行動していることに違いはない。友人が気休めに「この年になれば、死ぬこと以外はかすり傷、と思って過ごすしかない」という言葉を浴びせ、その友人は最近5カ年間に2度ガンの外科手術を体験している、つまりはかすり傷を名実ともに2つ抱えている。恵比寿代官山(われわれは仕事場のあるそのエリアをエビカンと呼んでいる)、エビカンの居酒屋で久しぶりの飲み会。

仕事仲間の他世代も当初は参加していたが、なにせGW明けのこの時期、というよりは<世の中的>に(非常にくだらない事象がほとんどだが)材を取る作業が繁忙を極めているので<現役世代>は作業に飛び出し、材が集まってから後がわれらロートル世代の出番ということで、二人が居残った次第。ビールを舐めるように飲み、鰹を何種か巧みにさばかれた料理をつまみつつ、語られる話題といえば、60年代からほぼ半世紀疾走し続けた蜷川幸雄氏についてであり、おびただしい量の実績よりも、われら二人に共通する思いは「死ぬまで現役、っていいよな」であり、ガンに冒されながら舞台をつくり、最後はガンでなく肺を主とする多臓器不全で逝く、というところに訴えるものがある、ということ。

映画とか舞台というのはもともと嘘をどう構築し、どう見せるか、そのために役者がどう演じるか、一つの原作を演出する方法でずいぶん異なった世界観を与えてくれる、そこに醍醐味があるのだが半世紀にわたり一人の演出家がつくりあげた世界観、これまた、醍醐味といわずにナンと言おう、そういう話でもあった。今は、世界観そのものが消費され、消化される時代になっているからこそ、蜷川幸雄という巨人の存在感が大きかった。

難しいのだけど、GW中の頃、偶然、暇をもてあましているなかで、「北の国から」を見る機会があった。ずいぶん迷ったのだけど、初期の作品と最後の「遺言編」を見ることにした。それでも2日間ほどの時間を擁した。昭和の匂いを芬々とさせ、さらに倉本聰氏のアクどく鋭いフィルターにかけられたセリフを聞いているだけで、むずがゆい思いから何度途中でやめようと思ったか、しかし、役者たちの存在感がナンとか引き留めてくれた。そして「遺言編」で出てきたトド役の唐十郎に打たれた。あれはまさしくテレビというメディアへの最後の<遺言>だったのかも知れない。