至福&耳福

いつの間にか、一年の4分の一が経過しており、昨日はフール・オン・ザ・ヒルならぬエイプリルフール、一年前のこの日の朝、「ああ、自分の人生の終わり、なんてこんなものだったのか、早いような、でもそれなりに長かったかな、まあ、自分なりによく生きたよ」とわずか2、3秒の瞬間に思ったこと、頭が白くなり、胸にわずかな鈍い痛みがあり、意識が緩慢に薄れていく、そんな臨死の縁を垣間見た、そんな経験を初めてした、そんな<記念日>でした。

だから、先週の年度末ウィークは殊更に寒かったこともあり、多忙な中、非常にムリをしないよう自重に自重を重ね、ナントかトンネルを抜けたような気分です。

多忙もあり、このところ傾注していた映画を見ることもなく、本を読むこともなく、ちまたで話題の坂本龍一プロフェッサーの<新譜>を聴くこともなく、強いてあげれば、ラジオにハマっていた、と言うべき一週間であったかもしれず、やはりラジオというものの魅力は計り知れないと実感させられ。

その中でも2つ。一つは開局65周年を迎えた文化放送の特別番組(3月30日、木曜日の午後6時から9時)であり、イタリアのアルバという町で2人の神父のやりとりから始まった、という開局ストーリーから、この65年の間に<デンスケ>という機材を肩にしてラジオのスタッフがいかにその時々の<現場>を取材したかというドキュメント。学生時代、三島由紀夫が市ヶ谷の防衛省でことを起こした同じ時間に私は、当時本局のあった文化放送の見える四谷・若葉町でうごめいていた立場として、興味深く聴いた。

もう一つは、この<番組改編期>にいくつかの番組が終わり、いくつかの番組が生まれてくる時期であり、「新たな話術」が登場した番組に立ち会いました。3月28日午後9時からTBSラジオにて「神田松之丞ひとり語りの一時間」という至福、耳福な番組に遭遇、4月2日午前0時半からの30分間、「神田松之丞問わず語りの松之丞」という3ヶ月限定レギュラーの初回につながった。<話術>の確かなる<話芸>の才人に出会えたというのは至福&耳福、なんですわ。

五分咲き

冷たい雨がしたたる降り、ブラックに近い気分の月曜日。昨夜の大相撲大阪場所における稀勢の里の熱闘が遠い昔に感じられる事業年度最後の週初め。

 

f:id:fukahara_itami:20170327093900j:plain

 

我が家の桜は、先週の火曜日の気象庁による<東京で桜開花>と時を同じくして開花し、順調に五分の咲きよう。この蕎麦猪口に植えられた桜は、種を<雲母>と言われ、昨年7月にバザーで入手したもの。その時は、きれいな緑の葉に覆われた状態であり、秋には枯れ葉となって朽ちたかの錯覚を覚えるものの、枝は細いものの、見事に冬を乗り越えた。3月初めに<芽>らしきものが確認され、先週火曜日に見事に開花した。

 

ところで、都内の桜(ソメイヨシノ)は一向に開花していないように見えるのだが、まあ、気象庁を責めるのはやめよう。先週末、お花見を予定した善男善女たちには同情を禁じ得ぬ、が。

 

 

誘惑、修羅を上回る

 

三月弥生も10日をを経過、<修羅の三月>は名実を伴っていた。振り返ればわが人生は修羅常套ではあった、修羅上等ともいえた、楽しんでさえいた、これはいささか傲慢な物言いではあるが、本年度のわがテキスト(通年教科書自指定)の大江健三郎『定義集』においては、序盤から読み捨てならぬ逸文がならんでおり、現職官僚や閣僚らにとっても<指定教科書>としてお薦めしたいものであるがいらぬお節介だろう。

二月の終わりから昨日まで、<人間が機械になること・・・>、<繊細な教養の所産が壊される>、<書き直された文章を書き直す>らを熟読し、ああ、大江健三郎さんにとっても相当な修羅をくぐり抜けてこられたのだな、と実感。

教科書とは異なり、映画をずっと見続けているので読書も快感を求めてマニュエル・プイグの『天使の恥部』なんぞを読み終えました。『蜘蛛女のキス』同様、文章が視覚的で、この作品も映画化されたものを見てみたくなる作品でした。

 

f:id:fukahara_itami:20170310135205j:plain



で、映画ですが、縁なんでしょうか、私が『セッション』という作品を見ていたときにBSだかCSだかで同作品が放映されたようで、翌日の文化放送大竹まこと氏が見て感心したと話していた。その文脈は、『セッション』の監督が作った新作『ラ・ラ・ランド』がアカデミー賞有力作であることの延長にあったが、同番組にゲストで出たいとうせいこうは同作もいいが私はこれを推すと『ムーンライト』を紹介し、結果は皆さんご承知のようになりました。個人的には目先の事実より歴史となった作品を見るスタイルなので、『ラ・ラ・ランド』も『ムーンライト』も3年先ぐらいに見る予定。

で、『セッション』が素晴らしく、教授役で助演男優賞を獲得した役者、J.K.シモンズに魅入られた。この役者は、題名は忘れたが女流警察官を主人公にした連続ドラマの皮肉な上司役で見慣れていた。ああ、ここで思い出した、連続ドラマのタイトル、『クローザー』でした。調べたら、出演映画数がハンパでない、日本流に言うところの<名脇役>なんでしょうね。『セッション』を見ていて思ったのは演出家・蜷川幸雄さん、さぞかし、演出中の蜷川さんはこのプロフェッサーのような剣幕だったのでしょう。この作品に魅せられた私は監督・デミアン・チャゼルが脚本を担当したというだけで、『グランドピアノ 狙われた黒鍵』まで見てしまった。映画の基本、シナリオが優れている、『ラ・ラ・ランド』は見ていないが、『セッション』も『グランドピアノ』も楽譜がポイントになっている。三十を過ぎたばかりのデミアン・チャゼル、これから楽しみだ。

素肌、負けないで、ベイビー

地獄の2月も、もうじき終わる。今週末は<🎎>、え?これ、出るの? <ひな祭り>ですわ。つまり3月になります。今週末という言い方は日曜日を週の先頭に措く、最近のカレンダーのならい。土日を週末と言うのと同様、違和感を持つ。

さて、地獄の2月をどう過ごしたか、だが、相も変わらず、映画芸術を満喫して過ごした。『アラビアのロレンス』、『人生劇場・飛車角と吉良常』の2作品をその代表作として挙げておく。1960年代の作品だからゆうに50年前の作品だが、世界は変わっていない。中東の諸々も893の世界の諸々も、クォリティは劣化していることがよくわかる。4時間近い大作の前者は途中、<休憩>がちゃんと用意されていて、しかし、音は流れている、この作品あたりからサウンドトラックというものが登場したのではないか、と小林信彦さんを気取ってみる(苦笑)。アラブの人々にオレントと呼ばれたロレンス中尉(映画の最後には大佐に昇格)が映画の冒頭、バイクで疾走するシーンが5分ほど続き、本編最後で、バイクに乗ったアラブ人が自らが英国に帰国するジープの傍らを追い抜いていくシーンで終わる、このことを忘れていたが、今回あらためて2度見して確認した。ピーター・オトールという役者がロレンス、もとい、オレントという人物そのものを体現した、彼が30歳の時の演技だが、衣装も仕草も、どこからカメラを当ててもその存在感を損なわない、役者というのは<権威の愚行を命懸けの狂気と侠気で、問題をいかに分かりやすくカリカチュアして人々に伝えるか>だという教科書通りの見物でした。

後者は東映ではシリーズで何作も制作されたが、内田叶夢監督を迎えて、鶴田浩二高倉健辰巳柳太郎藤純子らのキャスティングでリメイクしたもの。原作者とおぼしき、小説家であり吉良常の親分の子である若旦那役で先日亡くなった若き松方弘樹が演じている。それもあって見たが、書き割りの人物配置(もちろん、内田叶夢演出によるものだが)が巧妙で、美しい。今話題のいわゆる<港湾利権>を893に振ってのさばる陰者、という構図は明らかに現在の方が劣化しているし、<オールスターキャスト>という観点からも、笑えないけれど、笑ってしまう、つまりは<人物>がいなくなってしまった、それにつきる。こういうことを感じてしまうことこそが<地獄の2月>なのである。

1980年代の終わり頃、つまりは昭和の終わり頃に気に入っていた、『シャ・リオン』という曲に遭遇できたのは<地獄に仏>だった。しかし、この曲を歌っていた河井英里という歌手は10年ほど前亡くなっていたことを今回初めて知った。大島ミチル作曲である。ずっと探していたが、探し方が下手だった。グーグルやアマゾンに頼らなくても探す方法はあった。自らを恥じることにもなった。現在、わがプレイリストにこの『シャ・リオン』とともに、尾崎豊の『ダンスホール』という曲や、ジャクリーヌ・デュ・プレのチェロ協奏曲(ドボルザーク)らの曲で構成、うそ寒い夜明けのサイクリングの帰路バージョンで聞き、地獄を乗り切りつつあります。表題は『今宵あなたに』、サザンのデビューアルバムの最後の曲、その歌詞の中にある。

夢が思い出せない

夢を思い出せない、こんなことはどなたにも数あることだとは思う。しかし、最近の私は<かなりセンセーショナルな夢>を見る。で、目覚めたときには覚えている。そのとき、メモ帳などを用意して書き留めておけばいいものを、まあね、起きたときは、それどころではないわけですよ
。意識は目覚めていても、自己分析的には起きちゃいない、やれタバコに手を伸ばすか、小用にたつか、あるいはヤカンで湯を沸かすか、最近ではまず靴下をはく、これを最初にやりますね。

こんなルーティンをやっているうちに、あれっ?なんだっけ?きれいさっぱり忘れておるのですわ。おおよそのイメージは残っていても、肝心要のディテールが粉砕されている。だから、いかにセンセーショナルであるかさえ、皆さんに伝えることもできない。え?こんなことを夢で見ているんですか?というような意味で<センセーショナル>であることはイメージできるのですが、登場人物の<意外さ>、場所(シチュエーション)の<意外さ>なども思い出せない。医療機器の革新が言われているが、人が見た夢を記録する機器が出来得れば、これほど革新的だと思ったが、これは人工知能よりも難しいことは薄明ですね。

さて、私の持病の方が状況よろしくならず、しばらく<要安静>を命じられました。週に一度、心電図をチェックする経過観察を続けてきましたが、先週末の心電図の波形が如実に悪化、ステージⅡのⅢに近い状況だとかかりつけ医から説明を受けました。Ⅰであれば、日常生活を普通にしてかまわないのだが、Ⅱになると<要安静>、ステージがⅢとなれば、入院の上に<絶対安静>になる、などと書くと簡単すぎますが、この病気は心臓機能の不具合と心理的サムシングが相乗し発する微妙なもので、おまけに確たる自覚症状がほとんどないので厄介。

<センセーショナルな夢>が心理的サムシングに影響を及ぼしているかどうか(笑)が目下最大の関心事。もっとも、信頼しているかかりつけ医ではあるものの、このことを告げるわけにはいかないし。

神宮コンビのニュースドットコムの2月10日号にて、アメリカ、トランプマターを直接論ずる具は犯さず、その背景にあるものと称しつつ、結局はアメリカの成立から今日までの近現代史東京理科大(といってもこの先生の属する基礎工学部というのは北海道長万部にあるらしい)の先生(石川敬史さん)をゲストに迎えて論ずる番組(タイトルは『トランプ政権を操るオルタナ右翼の正体』、決して歴史の長い国ではないのでコンパクトにかついくつかの角度を変えての講義、大いに学び直すことができました。日本史はともかく、中学高校での世界史は近現代を中心の授業をしないと、必要マターな世界観を持てないでいるリスクは大きいと思う。

滑稽について

「地獄の2月」がついに到来した。次には「修羅の3月」が待っており、さらに悪鬼羅刹な4月、魑魅魍魎な5月、混沌としか表現のしようのない6月が続き、一隅の光も見出だせないまま、兵どもが夢のあとな7月となるのだろう。早く8月になって欲しい、・・・、と例年思ってやり過ごしてきた、が、昨今は、そんな大それた思い上がった<やり過ごし方>など思ってもみない、日々好日、である。

最低気温が氷点下になる東京で寒さを愚痴ってみても、日本海側や北海道で過ごす冬を想像すれば、せんかたないのであり、最高気温が20度を超す月曜日なんぞを体験してみれば、暦というものに気候がおいついてきたのか、もほや春と思い、息吹を感受していくことの喜びを味わった方がいいとさえ思う昨日今日であります。

今年は、昨年暮れ思いついて<教科書>を携えた日々を送っており、その教科書とは大江健三郎『定義集』(朝日文庫)であります。72編のエッセイが収められた評論的エッセイ集、1編1編を丁寧に読んでいると、今日言われている<情報>とは異なる、本来の意味を持つ<情報>や、その<情報>がもたらすヒントに巡り会えるわけで。その<情報>や<情報>がもたらすヒントに触発されて個人的にわいてくるものを追い、そのラインを自分流に脇道をたどっていく、そんな試みを自らに課して、日々を送る、そういうことなのであり。

3つめの文章にある『滑稽を受容することとその反対』を読むと、あら不思議、1月20日以降の世界観に大いに隣接するテーマが見事に読み解ける図式が浮かび上がってきます。義弟である伊丹十三との邂逅、『世界滑稽名作選』やら、そして中野重治著作を通じて、<滑稽>について語るわずか3ページほどの文章ですが、そこからこぼれ落ちたり、にじみ出たり、わいて出てくるイメージは一筋縄ではいきません。

ま、いろいろ、あった、のですが、個人的に映画『グランド・ブダペスト・ホテル』に行き着いたことに大いに満足しています。3年ほど前の作品ですが、<やむを得ぬ滑稽と、それを受け止めようとする心、そしてその逆の残酷。滑稽であるほかない窮境にある者を、さらに残酷さの縁に落とすか、人間らしい崖っぷちへ引き戻してやるか>という滑稽試論にジャストミートな佳品に出会えたことで、滑稽は人に喜びをもたらす、などとジョージ・オーウェル『1984年』とは遠いところで思ったりしております。

二昔前、を想う

今週見た映画では、『大統領の陰謀』(1976年)、『レスラー』(2008年)の2作が秀逸だった。いずれも初見であり、『大統領の陰謀』はいわゆるウォーターゲート事件をスクープしたワシントンポストの若手記者(ロバートレッドフォード、ダスティンホフマン)の活躍をノンフィクションスタイルで靜逸に描いた作品、これほどの映画を1976年当時の自分が、話題にもなったろうになぜ見なかったのかが不明。40年前の自分は公私に多忙だった、主演の二人と同様、若手でしたからね。

一方、『レスラー』はバブル期に公開された『ナインハーフ』や、『エンゼルハート』でスターダムにのし上がったものの、その後、パタリと姿を見なくなったミッキーロークがようやく俳優になったな、と頷ける演技、これなくして作品そのものが凡庸となるのに、当時の容貌とはすっかり異なり、最初に出てきたとき、え?これがミッキーローク?と思わせる老いとは別の変貌に驚いた、しかも主人公そのものがミッキーロークと重なって見える、C級エンタテインメントであるどさ回りのプロレスラー、かつて(1980年代)一世を風靡した主人公が、娘にも見放され、心臓疾患にも襲われ、このままでは自分の人生の在処そのものを失ってしまう、そういう境地で、ファイナルエヴェントに望む。単館上映だったこともあり、見逃したが、例の神宮コンビがあまりに過剰に推薦するので見たのですが、やあ、見てよかったです。

東京は雪が降るのか降らないのか、小寒い曇り空の大寒の日ですが、これから厚着をして、エビカンへ打ち合わせに向かいます。