夢が思い出せない

夢を思い出せない、こんなことはどなたにも数あることだとは思う。しかし、最近の私は<かなりセンセーショナルな夢>を見る。で、目覚めたときには覚えている。そのとき、メモ帳などを用意して書き留めておけばいいものを、まあね、起きたときは、それどころではないわけですよ
。意識は目覚めていても、自己分析的には起きちゃいない、やれタバコに手を伸ばすか、小用にたつか、あるいはヤカンで湯を沸かすか、最近ではまず靴下をはく、これを最初にやりますね。

こんなルーティンをやっているうちに、あれっ?なんだっけ?きれいさっぱり忘れておるのですわ。おおよそのイメージは残っていても、肝心要のディテールが粉砕されている。だから、いかにセンセーショナルであるかさえ、皆さんに伝えることもできない。え?こんなことを夢で見ているんですか?というような意味で<センセーショナル>であることはイメージできるのですが、登場人物の<意外さ>、場所(シチュエーション)の<意外さ>なども思い出せない。医療機器の革新が言われているが、人が見た夢を記録する機器が出来得れば、これほど革新的だと思ったが、これは人工知能よりも難しいことは薄明ですね。

さて、私の持病の方が状況よろしくならず、しばらく<要安静>を命じられました。週に一度、心電図をチェックする経過観察を続けてきましたが、先週末の心電図の波形が如実に悪化、ステージⅡのⅢに近い状況だとかかりつけ医から説明を受けました。Ⅰであれば、日常生活を普通にしてかまわないのだが、Ⅱになると<要安静>、ステージがⅢとなれば、入院の上に<絶対安静>になる、などと書くと簡単すぎますが、この病気は心臓機能の不具合と心理的サムシングが相乗し発する微妙なもので、おまけに確たる自覚症状がほとんどないので厄介。

<センセーショナルな夢>が心理的サムシングに影響を及ぼしているかどうか(笑)が目下最大の関心事。もっとも、信頼しているかかりつけ医ではあるものの、このことを告げるわけにはいかないし。

神宮コンビのニュースドットコムの2月10日号にて、アメリカ、トランプマターを直接論ずる具は犯さず、その背景にあるものと称しつつ、結局はアメリカの成立から今日までの近現代史東京理科大(といってもこの先生の属する基礎工学部というのは北海道長万部にあるらしい)の先生(石川敬史さん)をゲストに迎えて論ずる番組(タイトルは『トランプ政権を操るオルタナ右翼の正体』、決して歴史の長い国ではないのでコンパクトにかついくつかの角度を変えての講義、大いに学び直すことができました。日本史はともかく、中学高校での世界史は近現代を中心の授業をしないと、必要マターな世界観を持てないでいるリスクは大きいと思う。

滑稽について

「地獄の2月」がついに到来した。次には「修羅の3月」が待っており、さらに悪鬼羅刹な4月、魑魅魍魎な5月、混沌としか表現のしようのない6月が続き、一隅の光も見出だせないまま、兵どもが夢のあとな7月となるのだろう。早く8月になって欲しい、・・・、と例年思ってやり過ごしてきた、が、昨今は、そんな大それた思い上がった<やり過ごし方>など思ってもみない、日々好日、である。

最低気温が氷点下になる東京で寒さを愚痴ってみても、日本海側や北海道で過ごす冬を想像すれば、せんかたないのであり、最高気温が20度を超す月曜日なんぞを体験してみれば、暦というものに気候がおいついてきたのか、もほや春と思い、息吹を感受していくことの喜びを味わった方がいいとさえ思う昨日今日であります。

今年は、昨年暮れ思いついて<教科書>を携えた日々を送っており、その教科書とは大江健三郎『定義集』(朝日文庫)であります。72編のエッセイが収められた評論的エッセイ集、1編1編を丁寧に読んでいると、今日言われている<情報>とは異なる、本来の意味を持つ<情報>や、その<情報>がもたらすヒントに巡り会えるわけで。その<情報>や<情報>がもたらすヒントに触発されて個人的にわいてくるものを追い、そのラインを自分流に脇道をたどっていく、そんな試みを自らに課して、日々を送る、そういうことなのであり。

3つめの文章にある『滑稽を受容することとその反対』を読むと、あら不思議、1月20日以降の世界観に大いに隣接するテーマが見事に読み解ける図式が浮かび上がってきます。義弟である伊丹十三との邂逅、『世界滑稽名作選』やら、そして中野重治著作を通じて、<滑稽>について語るわずか3ページほどの文章ですが、そこからこぼれ落ちたり、にじみ出たり、わいて出てくるイメージは一筋縄ではいきません。

ま、いろいろ、あった、のですが、個人的に映画『グランド・ブダペスト・ホテル』に行き着いたことに大いに満足しています。3年ほど前の作品ですが、<やむを得ぬ滑稽と、それを受け止めようとする心、そしてその逆の残酷。滑稽であるほかない窮境にある者を、さらに残酷さの縁に落とすか、人間らしい崖っぷちへ引き戻してやるか>という滑稽試論にジャストミートな佳品に出会えたことで、滑稽は人に喜びをもたらす、などとジョージ・オーウェル『1984年』とは遠いところで思ったりしております。

二昔前、を想う

今週見た映画では、『大統領の陰謀』(1976年)、『レスラー』(2008年)の2作が秀逸だった。いずれも初見であり、『大統領の陰謀』はいわゆるウォーターゲート事件をスクープしたワシントンポストの若手記者(ロバートレッドフォード、ダスティンホフマン)の活躍をノンフィクションスタイルで靜逸に描いた作品、これほどの映画を1976年当時の自分が、話題にもなったろうになぜ見なかったのかが不明。40年前の自分は公私に多忙だった、主演の二人と同様、若手でしたからね。

一方、『レスラー』はバブル期に公開された『ナインハーフ』や、『エンゼルハート』でスターダムにのし上がったものの、その後、パタリと姿を見なくなったミッキーロークがようやく俳優になったな、と頷ける演技、これなくして作品そのものが凡庸となるのに、当時の容貌とはすっかり異なり、最初に出てきたとき、え?これがミッキーローク?と思わせる老いとは別の変貌に驚いた、しかも主人公そのものがミッキーロークと重なって見える、C級エンタテインメントであるどさ回りのプロレスラー、かつて(1980年代)一世を風靡した主人公が、娘にも見放され、心臓疾患にも襲われ、このままでは自分の人生の在処そのものを失ってしまう、そういう境地で、ファイナルエヴェントに望む。単館上映だったこともあり、見逃したが、例の神宮コンビがあまりに過剰に推薦するので見たのですが、やあ、見てよかったです。

東京は雪が降るのか降らないのか、小寒い曇り空の大寒の日ですが、これから厚着をして、エビカンへ打ち合わせに向かいます。

偶然について

ディック・フランシスの未読の最後の作品、『審判』を読了。『再起』からいわゆる晩年の6作品をドンドン読み、楽しんだ。楽しむだけでなく、大いに学べるのが彼の作品で、この『審判』では主人公が弁護士なので、法廷、裁判、陪審員らについての法曹基礎知識はもちろんのこと、昔、世界史で習った<マグナカルタ>について、あらためて講義を受けた気分、さらには次のような記述もあり、偶然などめったにないことを十二分に認識させられた後、偶然が主人公の窮地を救うのだから。

<・・・とにかく、偶然などというのは気に入らない。もっとも、そのこと自体、証拠として使えるはずはない。なにしろ、偶然は起こりうるのだ。暗殺されたアメリカ大統領、エイブラハム・リンカーンジョン・F・ケネディにまつわる偶然の一致を考えてみればいい。リンカーンにはケネディという名前の秘書がおり、ケネディにはリンカーンという名前の秘書がいた。そして二人とも、ジョンソン副大統領によって引き継がれている。それでも、やはり偶然というのは気に入らない。・・・>

年末年始、<正しく、ではなく楽しく生きよ>、と諭された身としては、とりあえず、読書においては楽しみを享受できました。

キツネにだまされなくなった

今日は元旦に続いてのぞろ目の日。先週土曜日更新のビデオニュースドットコムを見ている、新年初めての回は『座席争いからの離脱のすすめ』と題して、哲学(万物学)者・内山節氏を招いての番組をチェック。生の内山氏を見るのははじめて。かつて『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という名著を読んで、すばらしき納得を味わったことを覚えている。この名著が刊行されてもう10年も経つんだ。名著では日本の文化は1965年に大きな転機があったと指摘されていますが、世田谷・経堂に生まれた内山氏は新宿高校を卒業後、70年代に群馬県上野村に移住し、独学の哲学研鑽、という履歴が披露されると、米も野菜も作れない山の傾斜地に位置する上野村では明治期、多くの炭焼き人が移り住んだという話を始める。久々に私は『スミヤキストQの冒険』(倉橋由美子)を連想したりして。

国家が人々の幸福を保障できる時代がとうの昔に終わっていることを認識することが重要、といって始まった鼎談、以下、内山氏の骨子抜粋。

グローバル化の進展で先進国は軒並み、これ以上大きな経済成長が期待できない状況に陥っており、この停滞は単純なものではない。無理に成長を実現しようとすれば、弱いセクターを次々と切り捨てていくしかない。当然、格差は広がり、共同体は空洞化し、社会は不安定化する。

 これまでの考え方を根本から変える必要性を強調する。国家がわれわれを幸せにすることができないことが明らかになった今、この際つまらない座席争いからは離脱し、自らの足で立ち、自ら何かを作る作業に携わってみてはどうか。それは単なる「物作り」とか「手に職を」といった類いのものだけではなく、例えば共同体を作るといった作業も含まれる。

 これまでの方法で国家が人々を幸せにできなくなった時、人々は2つの選択肢に頼るようになる。一つは、これまでのルールや価値観を曲げてでも、より強いリーダーシップを発揮できる指導者を待望することであり、もう一つが、新たな枠組みを模索する動きだ。その2つの動きのうち、今後、どちらが優勢になるかはわからない。しかし、これまでの民主的な政府にはもはや寄りかかれそうもないので、より強権的な指導者を待望するというのは、少々危ういように思えてならない。どうせやるのなら、新しい時代を切り開くムーブメントに自分なりの方法で参加してみてはどうだろうか。>

かつてショーペンハウエルが「自己実現」というパラフレーズに難色を示したように、内山氏もこの言葉の誤謬について指摘、ほぼ宮台センセと同様のモバイル(自分の役割を実践すること、私的造語)をすすめる。正しくは「ムーバイル」かも。

いずれにしても、新聞テレビなんぞは頼るすべもなく、この神保哲生宮台真司の神宮コンビが提供する『ビデオニュースドットコム』と上杉隆の『ニュースオプエド』、『リテラシー』をチェックしつつ、ムーバイルしていくつもり。新聞一紙の購読料よりよほど安く、内容充実。とりわけ、神宮コンビの映画案件と『ニュースオプエド』月曜日(玉木正之氏担当)は外さない。しかし、うっかりしていると、昨年11月号のユリイカという雑誌が<みうらじゅん>を特集していることを見逃している、などという肩すかしを食らう、そういうのが今、だと思う。みうらじゅんといえば、文化放送いとうせいこうと一緒にやっている番組は面白い。同じ意味で面白いのは、月曜深夜のTBS、<東京ポッド許可局>。サンキュー・タツオ、プチ鹿島マキタスポーツの<売れない3人>がポッドキャスティングしていたものを、TBSが地上波に載せたという異例番組。テレビ、新聞はスルーするけどラジオだけはそういうわけにはいかない、掘り出し物が多いのです。

月と金星

何気ない日常が流れていくのを実感するのは、昔は日めくりの暦を朝一枚ずつめくるという行為が象徴していた。今や、日めくりにたとえれば、気がついたときに3日分ぐらいいっぺんにめくるようなスピードという比喩があっているだろうか、いや、3日ではないな、一週間ほど、うんそれでも足りないな、気がついたときには一月経っていたなんていうこともあった昨今、とりあえず西暦2017年、平成29年が明けました。

年末年始に休暇を得るというスタイルではないため、果てしない(終わりのない)仕事を続けながら、それでも2日と7日はお休みしました。昨年末に虜となったディック・フランシスの晩年作品シリーズの『祝宴』を昨日読了、いやぁ、楽しめました。BGMはこの作品のヒロインがヴィオラ奏者であることから、エルガーの『ニムロッド』や、年末に遭遇した朝倉さやという歌手の『日本漬け』というアルバム。このシリーズでは珍しく、主人公がフレンチのシェフであることが特徴で、しっかりしたリサーチが活きて、ヴィオラとヴァイオリンの違いも含めて、勉強にもなる読書、映画とともにあらためて<楽しむ>ことの醍醐味を味わえました。

エルガーといえば、『惑星ージュピター』なんぞが著名ですが、『ニムロッド』も宇宙空間を漂う気分を味わえます。そんな中、2日の夕刻、写真のような宵空に遭遇、月と金星のツーショット、手ぶれ補正はしておりません(笑)。これが私にとっての<ご来光>のようなもの、この月と金星の間を民間機なのか米軍機なのか不明ながら、縫っていくのも見えました。

f:id:fukahara_itami:20170102172620j:plain

年の瀬ラウンドアバウト

クリスマスアワードを終え、といっても私が主語ではなく、社会全体の話なんですが、2016年も最終週、とはいえ、一日一日の充実を心がけていれば、年末だとか年始だとか、あるいは年が変わる、年齢を重ねるなどということにことさら思いを置くような心境にはならず、ただ季節感を感じていたいとは思うものの、日によって気温が乱高下し、季節が進んだり戻ったりする、気象状態が異常なのか、社会の停滞(劣化症状)などが繰り返されている中、やっぱりクールに自らを措き、ほんとの意味でのリテラシーの力を研ぎ澄ませる、そうやって後6日を過ごすのだろうな、と。

映画の話しの続きなのだが、今年の日本映画のベストナントかが先週今週賑やかしされておりますが、『シン・ゴジラ』、『君の名は。』、『この世界の片隅で』について、さんざん耳たこ状態で、見ました感が強いのだけれど、ええ、来年になって落ち着いたら、しっかり見ることにします。私は目下、リーアム・ニーソンにハマっておりまして、きっかけはクリント・イーストウッドの作品を見ている中で、『ダーティハリー5』に出演した彼を見そめまして、以降リュック・ベッソンの手になる『96時間』シリーズ、『アンナウン』などを見続け、果てはわが敬愛するローレンス・ブロック原作のマット・スカダーシリーズの一つ『誘拐の掟』なんぞにたどり着き、果ては彼を一躍スターダムに押し上げた『シンドラーのリスト』まで見ちゃっております。

同時に読書では6年ほど前に亡くなったディック・フランシスの晩年の作品を読み始めたら、これまたドツボにハマり、一連のこの著者のシリーズの主人公をリーアム・ニーソンをイメージすると、まるで映像が浮かび上がってくるのを楽しんでおり、しかし、ほかの今時のミステリやらには食指が動かない、これはひとえに個人的なリテラシーの傲慢さによるもの、あっ、上記の『誘拐の掟』には原作を読んでいて、そのすばらしいキャラ造形に頷いたTJなる少年も登場しており、なるほど、ピッタリ、と納得。このブログのタイトルも、ローレンス・ブロック氏にちなんだもの。

何かが退場し、何かが登場し、そしてそれぞれが回遊し、時代がかなりのスピードで動くが、どこかでスピードを落とし、ラウンドアバウトで交錯する、そういうイメージで、ある意味、本質インチキが真っ当を凌駕する、そういう時代が過ぎていく、末期がんで余命一ヶ月を切った同業者が昨日をもって退職、職場を去って行った、私物を携えトボトボ歩く54歳の後ろ姿を仕事場の全員で見送った、涙が流れた。闘病生活のべ8年、担当医に「手は尽くした」と先月言われたという、最後まで仕事を全うし、その内容に手抜かりはなかった。『この世界の片隅で』のテーマソングそのまま、その後、TBSラジオに出演した作詞者・北山修が彼しか言えない表現で、今の時代を生き抜く心の処方箋を話しており、沈鬱にも受け止めた。

儀礼でしか言えませんが、皆様にとって、よい年が巡ってきますように祈念し、本年の更新を終了します。