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二昔前、を想う

今週見た映画では、『大統領の陰謀』(1976年)、『レスラー』(2008年)の2作が秀逸だった。いずれも初見であり、『大統領の陰謀』はいわゆるウォーターゲート事件をスクープしたワシントンポストの若手記者(ロバートレッドフォード、ダスティンホフマン)の活躍をノンフィクションスタイルで靜逸に描いた作品、これほどの映画を1976年当時の自分が、話題にもなったろうになぜ見なかったのかが不明。40年前の自分は公私に多忙だった、主演の二人と同様、若手でしたからね。

一方、『レスラー』はバブル期に公開された『ナインハーフ』や、『エンゼルハート』でスターダムにのし上がったものの、その後、パタリと姿を見なくなったミッキーロークがようやく俳優になったな、と頷ける演技、これなくして作品そのものが凡庸となるのに、当時の容貌とはすっかり異なり、最初に出てきたとき、え?これがミッキーローク?と思わせる老いとは別の変貌に驚いた、しかも主人公そのものがミッキーロークと重なって見える、C級エンタテインメントであるどさ回りのプロレスラー、かつて(1980年代)一世を風靡した主人公が、娘にも見放され、心臓疾患にも襲われ、このままでは自分の人生の在処そのものを失ってしまう、そういう境地で、ファイナルエヴェントに望む。単館上映だったこともあり、見逃したが、例の神宮コンビがあまりに過剰に推薦するので見たのですが、やあ、見てよかったです。

東京は雪が降るのか降らないのか、小寒い曇り空の大寒の日ですが、これから厚着をして、エビカンへ打ち合わせに向かいます。

偶然について

ディック・フランシスの未読の最後の作品、『審判』を読了。『再起』からいわゆる晩年の6作品をドンドン読み、楽しんだ。楽しむだけでなく、大いに学べるのが彼の作品で、この『審判』では主人公が弁護士なので、法廷、裁判、陪審員らについての法曹基礎知識はもちろんのこと、昔、世界史で習った<マグナカルタ>について、あらためて講義を受けた気分、さらには次のような記述もあり、偶然などめったにないことを十二分に認識させられた後、偶然が主人公の窮地を救うのだから。

<・・・とにかく、偶然などというのは気に入らない。もっとも、そのこと自体、証拠として使えるはずはない。なにしろ、偶然は起こりうるのだ。暗殺されたアメリカ大統領、エイブラハム・リンカーンジョン・F・ケネディにまつわる偶然の一致を考えてみればいい。リンカーンにはケネディという名前の秘書がおり、ケネディにはリンカーンという名前の秘書がいた。そして二人とも、ジョンソン副大統領によって引き継がれている。それでも、やはり偶然というのは気に入らない。・・・>

年末年始、<正しく、ではなく楽しく生きよ>、と諭された身としては、とりあえず、読書においては楽しみを享受できました。

キツネにだまされなくなった

今日は元旦に続いてのぞろ目の日。先週土曜日更新のビデオニュースドットコムを見ている、新年初めての回は『座席争いからの離脱のすすめ』と題して、哲学(万物学)者・内山節氏を招いての番組をチェック。生の内山氏を見るのははじめて。かつて『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という名著を読んで、すばらしき納得を味わったことを覚えている。この名著が刊行されてもう10年も経つんだ。名著では日本の文化は1965年に大きな転機があったと指摘されていますが、世田谷・経堂に生まれた内山氏は新宿高校を卒業後、70年代に群馬県上野村に移住し、独学の哲学研鑽、という履歴が披露されると、米も野菜も作れない山の傾斜地に位置する上野村では明治期、多くの炭焼き人が移り住んだという話を始める。久々に私は『スミヤキストQの冒険』(倉橋由美子)を連想したりして。

国家が人々の幸福を保障できる時代がとうの昔に終わっていることを認識することが重要、といって始まった鼎談、以下、内山氏の骨子抜粋。

グローバル化の進展で先進国は軒並み、これ以上大きな経済成長が期待できない状況に陥っており、この停滞は単純なものではない。無理に成長を実現しようとすれば、弱いセクターを次々と切り捨てていくしかない。当然、格差は広がり、共同体は空洞化し、社会は不安定化する。

 これまでの考え方を根本から変える必要性を強調する。国家がわれわれを幸せにすることができないことが明らかになった今、この際つまらない座席争いからは離脱し、自らの足で立ち、自ら何かを作る作業に携わってみてはどうか。それは単なる「物作り」とか「手に職を」といった類いのものだけではなく、例えば共同体を作るといった作業も含まれる。

 これまでの方法で国家が人々を幸せにできなくなった時、人々は2つの選択肢に頼るようになる。一つは、これまでのルールや価値観を曲げてでも、より強いリーダーシップを発揮できる指導者を待望することであり、もう一つが、新たな枠組みを模索する動きだ。その2つの動きのうち、今後、どちらが優勢になるかはわからない。しかし、これまでの民主的な政府にはもはや寄りかかれそうもないので、より強権的な指導者を待望するというのは、少々危ういように思えてならない。どうせやるのなら、新しい時代を切り開くムーブメントに自分なりの方法で参加してみてはどうだろうか。>

かつてショーペンハウエルが「自己実現」というパラフレーズに難色を示したように、内山氏もこの言葉の誤謬について指摘、ほぼ宮台センセと同様のモバイル(自分の役割を実践すること、私的造語)をすすめる。正しくは「ムーバイル」かも。

いずれにしても、新聞テレビなんぞは頼るすべもなく、この神保哲生宮台真司の神宮コンビが提供する『ビデオニュースドットコム』と上杉隆の『ニュースオプエド』、『リテラシー』をチェックしつつ、ムーバイルしていくつもり。新聞一紙の購読料よりよほど安く、内容充実。とりわけ、神宮コンビの映画案件と『ニュースオプエド』月曜日(玉木正之氏担当)は外さない。しかし、うっかりしていると、昨年11月号のユリイカという雑誌が<みうらじゅん>を特集していることを見逃している、などという肩すかしを食らう、そういうのが今、だと思う。みうらじゅんといえば、文化放送いとうせいこうと一緒にやっている番組は面白い。同じ意味で面白いのは、月曜深夜のTBS、<東京ポッド許可局>。サンキュー・タツオ、プチ鹿島マキタスポーツの<売れない3人>がポッドキャスティングしていたものを、TBSが地上波に載せたという異例番組。テレビ、新聞はスルーするけどラジオだけはそういうわけにはいかない、掘り出し物が多いのです。

月と金星

何気ない日常が流れていくのを実感するのは、昔は日めくりの暦を朝一枚ずつめくるという行為が象徴していた。今や、日めくりにたとえれば、気がついたときに3日分ぐらいいっぺんにめくるようなスピードという比喩があっているだろうか、いや、3日ではないな、一週間ほど、うんそれでも足りないな、気がついたときには一月経っていたなんていうこともあった昨今、とりあえず西暦2017年、平成29年が明けました。

年末年始に休暇を得るというスタイルではないため、果てしない(終わりのない)仕事を続けながら、それでも2日と7日はお休みしました。昨年末に虜となったディック・フランシスの晩年作品シリーズの『祝宴』を昨日読了、いやぁ、楽しめました。BGMはこの作品のヒロインがヴィオラ奏者であることから、エルガーの『ニムロッド』や、年末に遭遇した朝倉さやという歌手の『日本漬け』というアルバム。このシリーズでは珍しく、主人公がフレンチのシェフであることが特徴で、しっかりしたリサーチが活きて、ヴィオラとヴァイオリンの違いも含めて、勉強にもなる読書、映画とともにあらためて<楽しむ>ことの醍醐味を味わえました。

エルガーといえば、『惑星ージュピター』なんぞが著名ですが、『ニムロッド』も宇宙空間を漂う気分を味わえます。そんな中、2日の夕刻、写真のような宵空に遭遇、月と金星のツーショット、手ぶれ補正はしておりません(笑)。これが私にとっての<ご来光>のようなもの、この月と金星の間を民間機なのか米軍機なのか不明ながら、縫っていくのも見えました。

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年の瀬ラウンドアバウト

クリスマスアワードを終え、といっても私が主語ではなく、社会全体の話なんですが、2016年も最終週、とはいえ、一日一日の充実を心がけていれば、年末だとか年始だとか、あるいは年が変わる、年齢を重ねるなどということにことさら思いを置くような心境にはならず、ただ季節感を感じていたいとは思うものの、日によって気温が乱高下し、季節が進んだり戻ったりする、気象状態が異常なのか、社会の停滞(劣化症状)などが繰り返されている中、やっぱりクールに自らを措き、ほんとの意味でのリテラシーの力を研ぎ澄ませる、そうやって後6日を過ごすのだろうな、と。

映画の話しの続きなのだが、今年の日本映画のベストナントかが先週今週賑やかしされておりますが、『シン・ゴジラ』、『君の名は。』、『この世界の片隅で』について、さんざん耳たこ状態で、見ました感が強いのだけれど、ええ、来年になって落ち着いたら、しっかり見ることにします。私は目下、リーアム・ニーソンにハマっておりまして、きっかけはクリント・イーストウッドの作品を見ている中で、『ダーティハリー5』に出演した彼を見そめまして、以降リュック・ベッソンの手になる『96時間』シリーズ、『アンナウン』などを見続け、果てはわが敬愛するローレンス・ブロック原作のマット・スカダーシリーズの一つ『誘拐の掟』なんぞにたどり着き、果ては彼を一躍スターダムに押し上げた『シンドラーのリスト』まで見ちゃっております。

同時に読書では6年ほど前に亡くなったディック・フランシスの晩年の作品を読み始めたら、これまたドツボにハマり、一連のこの著者のシリーズの主人公をリーアム・ニーソンをイメージすると、まるで映像が浮かび上がってくるのを楽しんでおり、しかし、ほかの今時のミステリやらには食指が動かない、これはひとえに個人的なリテラシーの傲慢さによるもの、あっ、上記の『誘拐の掟』には原作を読んでいて、そのすばらしいキャラ造形に頷いたTJなる少年も登場しており、なるほど、ピッタリ、と納得。このブログのタイトルも、ローレンス・ブロック氏にちなんだもの。

何かが退場し、何かが登場し、そしてそれぞれが回遊し、時代がかなりのスピードで動くが、どこかでスピードを落とし、ラウンドアバウトで交錯する、そういうイメージで、ある意味、本質インチキが真っ当を凌駕する、そういう時代が過ぎていく、末期がんで余命一ヶ月を切った同業者が昨日をもって退職、職場を去って行った、私物を携えトボトボ歩く54歳の後ろ姿を仕事場の全員で見送った、涙が流れた。闘病生活のべ8年、担当医に「手は尽くした」と先月言われたという、最後まで仕事を全うし、その内容に手抜かりはなかった。『この世界の片隅で』のテーマソングそのまま、その後、TBSラジオに出演した作詞者・北山修が彼しか言えない表現で、今の時代を生き抜く心の処方箋を話しており、沈鬱にも受け止めた。

儀礼でしか言えませんが、皆様にとって、よい年が巡ってきますように祈念し、本年の更新を終了します。

ひとり年末調整

4ヶ月ぶりの更新、みなさま、お久しぶりです。すでに師走の五日という、もうなんともいかんともしがたい日々が巡っており、つねっても痛くならない頬をさすりつつ、今日は「ひとり年末調整」なる経理業務を朝イチから始め、さきほど終えたところ。

さて、7月末に<恒例の>不調が巡ってきて、例によって<安静生活>に入り、安静解除間もない9月末再び不調に陥り、このときは3日間検査入院を余儀なくされました。安静解除が明けたのは先月中旬のことで、人心地のついたのはここ一週間ほど。

ほぼ三ヶ月あまりの<安静生活>においては、ノウハウをつかんだといいますか、この期に及んで、人生の達人となったごとく、本、音楽、映画を十二分に堪能したのでございます。

その中でも、映画、すごかったな、これまで観たものも含め、実に三百本ほどを観まくりました。もちろん、ネット配信のものですが。最初はのべつ幕なしに観まくっていたのですが、さすがに鑑賞記録(こういうのをしていかないと、数日前に観た作品をはじめから観て、しばらくたたないと、既賞に気がつかないことが常、なので)を付けはじめ、作品タイトル(邦題と原題)、キャスト、監督名、制作年、そして自分だけのレビューをワンコメント、これも始めてみると、けっこう楽しいもので。

クリント・イーストウッドの作品、ほぼ制覇しました。手法はともかく、テーマがこれほど多岐にわたっているとは知りませんでした。その中のいくつかについてレビューを紹介しようと思ったのですが、きりがありません、また、機会があればいつか。映画芸術、恐るべし、です。

この間に、例によって、<訃報>がいくつも(当たり前ですが)。8月には性格俳優・梅津栄豊田泰光むのたけじ、トゥーツ・シルマンス、ベラ・チャスラフスカ、加藤紘一、10月にはアンジェイ・ワイダ平尾誠二平幹二朗高井有一、ロバートヴォーン、りりィレオン・ラッセル、そしてフェデロ・カストロ(いずれも敬称略)。それぞれに思いはありますが、キリがないので。

読んだ本では、『罪の声』(塩田武士)、『ザ・コラム2006~2014』(小田嶋隆)、『レイ・ブラッドベリ 自薦傑作集 万華鏡』(中村融訳)、『祝祭移動日』(ヘミングウェイ)、『オシムの言葉』(木村元彦)などを堪能しました。最後の2作は既読なのですが、KINDLE版でiPhone で(つまりは電子書籍として)読みました。傑作でした。『オシムの言葉』は超のつくドキュメントというのか、複雑な事態をわかりやすく、読者の意識喚起を促す描き方、ただ単に、オシムにインタビューをしただけで書くのではなく、あの東欧の言葉、民族性、宗教、政治のカオスの実際を取材した上で書いているのでオビツァ・オシムの濃密な人生を描くこと、半端なく、メディアライターの領域を大きく超えた、いわゆる2000年代屈指の作品であることをあらためて知り、なおかつ、電子本として読んでも読み応えがあった。

ディアハンター

永六輔死去、についてレクイエムの名手を気取る気持ちはない。書くことは多々ある。しかし、一点にする。ラジオの名手であったことと、最後までそのラジオにこだわったこと、見事だった。自らの名を冠にした番組、<永六輔七転八倒九十分>の冠を局として外さざるを得なくなった6月27日の最終回を終えての、7月7日逝去、だった。これ以上は、今、書かない。ラジオについてと同様、いずれ日を改めて。

訃報と言えば、マイケル・チミノもけっこう意外だった。<昔の名前>として、私でさえ忘れかけていた。不意に聞かされた名前だった。名前を知っていても、その作品については、一作しか観ていない(もう一作、駄作と評判の映画を観に行ったのだが、途中で映画館を出てしまった)、その一作が『ディアハンター』で、私の生涯での映画ベスト10に確実に入る映画。序盤の民族色多彩の結婚式シーン(ロシア正教会、主人公たちはピッツバーグに住むロシア系移民)で引きつけられ、中盤のベトナムシーンで息をのみ、後半の帰還兵を待ち受けるアメリカというものを描いたシーンで胸をつかれる、そして凄惨なラストへと長尺ながら、最後まで観てしまう。メリル・ストリープを初めて観たのもこの映画。クリストファー・ウォーケンも怪演。ロバート・デ・ニーロは言わずもがな。

この関連で、新しい映画では「トランボ/ハリウッドに最も嫌われた男」は気になる映画。時代がさかのぼるし、キャスティングがいいし、肝心のテーマがね。

・・・、などと書いていたら、<大橋巨泉氏、逝去>の報が。こういう予感(永六輔氏と大橋巨泉氏は逝くときは相次いで逝く)が数年前からしていた。永六輔がラジオの名手であれば、大橋巨泉はテレビの名手、言わずもがな。往時は向かい合いもしなかった二人が近年は永氏の番組に出稼ぎにやって来ては、大事な話を繰り返ししていた、そういう時代なんだろうな、今は。実感が湧かないので、この話もいつか日を改めて。

ああ、大橋巨泉氏、私はまずジャズの入門を彼のラジオ番組でなし、たとえば『奇妙な果実』(ビリーホリディ自伝・油井正一大橋巨泉共訳、晶文社刊)なんぞも読み始めたから私にとってはJazzティーチャーでもあった、というかそこから始まった。

東海以西が梅雨明けで、関東以北はお預けを食らいながら、でも実質梅雨明けの暑さが押し寄せており、琉球の大工哲夫さんの『生活の柄』なんぞを聞きつつ、辻邦生の『嵯峨野明月記』を読み進めております。本阿弥光悦俵屋宗達、角倉素庵の3人が繰り返し独白する、改行も何もない文字詰めの息苦しい構成ながら、黙ってその独白を進めていくと、苦行(苦笑)の先に、戦国の混沌からそれぞれ異なる手法と思惟と実践により、次第に<嵯峨本印行>という事業に結実していく、まことに行のような読書でありながら、崇高な達成へと導かれるカタルシスを味わうために。