ハズレを引く

ローレンス・ブロックの新作に巡り会え、10月はまさに読書の秋を満喫しておりますが、9月はひどかった。あえて作品名と著者名は明らかにいたしませんが、上下巻5000円を超える大作、ある方の評伝なんですが、著者も大学の教授をなさっているんですから、それなりのクオリティを携えたものであろうと、大枚をはたいて購入してきて、楽しみにひもとけば、同じ事象の事柄を手を替え品を替え、リフレインしている、上下巻、一冊で収められなかった、いわゆる水増し表現、評伝の対象となる方への冒涜ではないのか?と読み進めるウチに腹が立ってしかたなく、途中で放り投げました。


こういう体験、しばらくしてこなかったので、落ち込みました。そんなときに、『泥棒はスプーンを数える』に遭遇したのです。それ以降は、翻訳家・田口俊樹さんの翻訳家デビュー作、『ゲームの名は死』(ダン・J・マーロウ著・ハヤカワポケミス1332)も一気読み、その勢いで、たまたま黒澤明作品に溺れていたら、なんとタイトルが『用心棒』というハヤカワポケミスの新刊が出て居るではないですか。


勿論、原題はThe Bouncer となっているんですが、著者デイビッド・ゴードンは明らかに黒澤明の作品を相当見込んでおり、その痕跡が作品のあちらこちらに。で、解説の杉江松恋氏も、主人公・ジョーは三船敏郎である、と断言しており、そう刷り込まれると、なおさら、この作品が活性化してくるという不思議な読書体験をすることができたのです。


先週からは『蒙古襲来〜転換する社会』(網野善彦著・小学館文庫)というジャンルは異なるものの、今読めば、上品なミステリとして読める、古代から中世(鎌倉幕府の話がメイン)にかけての日本の中世を新たな視点で読み解いた、スリリングにして高邁な、まさに歴史ミステリとして読めるんですよ。網野善彦さんといえば在野の逸材学者、中沢新一さんのおじさんですからね、冒頭の評伝を著した某教授とはひと味もふた味も格調に秀でておるのです。


当たり外れは世の常と申しますが、ハズレを引くことのなかった私ではありますが、ハズレを引いたときの自分を責める惨めさを久しぶりに味わった、読書の秋のスタートでした。

急転直下、『天国と地獄』


9月30日の日曜日と言えば台風24号が本土接近中で、私は家人と6時の待ち合わせのため、5時頃バスで渋谷に向かったのだが、渋谷に着くと、「東急東横店は本日、台風接近のため、午後6時をもって閉店します」とアナウンス。同じく、JR各線ともに午後8時以降運休という知らせが。


駅地下のフードショーには人が集まり、各店舗ともに<在庫一掃セール>を展開中、私とて、こういうときには家人とSNSを用いての相互連絡を行うもので、家人からは5時半の時点で、地下鉄の銀座あたりを通過中というメッセージ、私は6時までに<弁当でも買っておくか?>という返しを。


このやりとりが意味をなさないような行動を私はとり、渋谷の地下街から通路を通り、井の頭線のホーム下に位置する啓文堂書店に移動した。この時点で5時45分、そこで<奇跡の出遭い>をすることになった。文庫本の新刊コーナーで目を疑うような本に出遭う、『泥棒はスプーンを数える』?ううううっと、<泥棒は・・・・>どこかで聞いたフレーズだな、え、ひょっとしてR,ブロック?ありゃ、そうみたい、え?え?え?


もう、著者ローレンス・ブロックの新作には巡り会えない、と勝手に思い込んでいた。でも、しかし、ひょっとして、とずーっと、二見文庫(ブロックの著作は、この出版社から発行されていた)とハヤカワ文庫のコーナーはチェックしていた。しかし、今度は集英社文庫、訳者が田口俊樹さんなので半分、ホッとして。


原作は2013年にアメリカで刊行されていた。しかし、版権料が高かったのか、二見書房が二の足を踏んでいたのか、その点は明らかではないけれど、とにかくブロックの新刊が日の目を見たことに感激。ブロック節は相変わらずで。


主人公は書店経営の傍ら、泥棒も生業としているバーニー・ローデンバー、バーニーの親友で犬の美容師をしているレズのキャロリン・カイザー、この二人の会話がメインとなり、話の膨らみを担当するニューヨーク市警刑事のレイ・カーシュマンが絡む。これだけで、満腹、そういう作品。


作品中の会話の中に、エド・マクベインの87分署シリーズの登場人物が語られ、私は作品を読み終えると(今回は右目の状態は決してよくはないのに、久しぶりに一晩で読み終えました)、エド・マクベインのことを考え、シリーズのなかの『キングの身代金』を黒澤明が映画化し、『天国と地獄』、たまたま、ネットで黒澤明の特集をやっており、見てしまいました。

懐疑と叡智

<懐疑は、恐らくは叡智の始かも知れない、然し、叡智の始まる處に藝術は終るのだ、・・・by アンドレ・ジイド>というのは、小林秀雄の随筆集『様々なる意匠』の巻頭に置かれた惹句だ。


PCのトラックパッドが私同様、経年劣化の兆しが見え始め、日産8000字打ち込むわが作業に支障をきたすようになったので、本日、無線のマウスを購入しに、ビッグカメラへ。


PC、i-pod(携帯音楽再生機)、そしてiPhone4種も含めてわが生涯においてapple社にいかほど注ぎ込んできたか。80年代のMac遭遇以降、MacPCだけでも9台買い換えているから、そして当時のPCは、ましてやMacそのものが1台1台、すべからく高額だったから、2000万円はいかないまでも1500万円ほどは貢いだことは確か。


これに加えて、Macでしか使えないソフト(アプリと最近いうようになった)、グラフィック関連のAdobe社のソフト、編集ソフトQualkXpress、それから当時はフォントを数種類使っていて、いずれも高価なものが多く、数百万円は費やしたと思う。首都圏のどこぞの新築一戸建ての頭金には十分な価額だと思う。


トラックパッドの劣化に過ぎず、本体のMac Book Pro もすでに8年間の長きにわたり、わがハードデイズをともにしてきたから、経年劣化は当然の帰結。そろそろ新機種への買い換えの時期なのかと思う。そんなことをチラと考えつつ、Appleのサイトを覗いたら、<Mac の向こうから>というシリーズ動画があり、これにすっかり魅入ってしまった。

 

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で、なぜか、私の<Mac の向こうから>届いたイメージは、アンドレ・ジイドの惹句を引用した小林秀雄の想念、懐疑は叡智の始まり、にたどり着く。昭和38年の文庫版、発行元はと見れば、今をときめく新潮社だ。活字が見事に紙を圧して刷られている、活字文化の象徴としての、まさしく懐疑が懐疑たり得て、叡智に至り、叡智をわがものとした瞬間から藝術の終わりが始まるなどという想念をありがたく繰り広げていた時代。


今は、<懐疑は、検索という名のエンジンを起動すること>であり、叡智というものに遭遇できるかどうか、微妙ではないか、というのが私の<Mac の向こうから>。

 

 

Seek And Found

懸案の、南信州への<旧盆帰省>を無事過ごすことができ、その前後には東京地方もしのぎやすい気候があったものの、先週来の酷暑ぶり返しにはどんな健全な身体および精神を持ってしても、抗う仕方はただ冷房の恩恵に浴するのみ。


7月に続き、8月も印象としては酷暑だった。その8月も今日で終わり、どうやら、明日以降秋雨前線の影響で、気温としてはしのぎやすくなるという予報。来週半ばの台風が厄介であるような予感はするが。


で、この8月を振り返ってみると、私は一つのテーマをことさらに頭の中でリフレインしながら過ごしてきた。手前味噌になるが、このテーマ、リフレインはわれながらうまくいったと感じている。


テーマは<シーク&ファインド>である。なあ〜んだ、それか、と指摘されるのは承知の上である。<シーク&ファインド>とはおおよその人の、人生におけるありふれたテーマであり、かつ、営みの核心的な手順みたいなものだからだ。


このありふれたテーマ、手法といってもいい、これをにちょっと挑戦しようと思い立ったのは堀江敏幸氏の『その姿の消し方』(新潮文庫)を月初めから携えていたからである。二百ページに満たない短い小説だが、一つずつのセンテンスを読み流してしまうと、ことの顛末を理解できなくなってしまう、そういう濃密にして端正なセンテンスが続く。


フランスの古物市で入手した一枚の古い絵はがき、消印は1938年6月15日、A.Lという男からN.Dという女性に当てて出されたもの。ここから<シーク&ファインド>が始まる。優れたミステリを読み始めた気分だったが、次第に自分が<姿を消すプロセス>、つまりは21世紀のこの時期に生息する私(これは自分のこと)がこの先、どうやって姿を消す、つまりは、どのようにこの生を終え、世の中から姿を消していくか、を常に想像しつつ、読み進めることとなる。


読み始めのミステリ感覚から、読者である私が自らの<消え方>を想像する旅に出るところ、これが<シーク&ファインド>をあらためて意識させられる、そういう小説であり、読書体験だった。


『その姿の消し方』の二度目の読み進めをしたのは、南信州行きの往路のバス車内、隣に座った大学生と思しき若者が、分厚い文庫本を渾々と読み進めるのを意識して読み始めた、珍しい体験。


帰路のバスの隣席は小学2年生の男の子、通路を挟んだ隣席に座る母親に命じられ、夏休みの課題作文を専用ノートにしたためる作業、このバスはだいぶ前に発生した事故による渋滞に巻き込まれ、新宿到着まで述べ7時間を要した。この男の子は八王子あたりで作文を完成させ、それから2時間ほど渾々と眠っていた。珍しい体験。


この男の子に刺激された訳ではないが、私はノートに私なりの<シーク&ファウンド>のためのメモを。私はフランスへは一度も行っていない。古物市で買い物をしたこともない。端緒は、5年前にノートに記したメモ。そこから<シーク&ファウンド>をしているうちに、あっという間に新宿に着いてしまった。


新宿バスタのトイレで、小学2年生の男の子と一緒になった。これから、私などより圧倒的に長い<シーク&ファウンド>をしていく彼に、声こそかけなかったけれど、表情で「元気、でな」っと。


これで<シーク&ファウンド>終わりではなかった。『True Detective』と『The Bridge』のそれぞれシーズン1とシーズン2と遭遇。前者はアメリカ片田舎の警察署が舞台、後者はスエーデンとデンマークの両国の警察官が合同捜査するというもの。何かの縁でこの2作品と出会え、幾重にも<シーク&ファウンド>が重なり、熱されたわが頭の中を、何か言葉にならないものが木霊のように乱反射している。これは8月を終えても、ああ、そこまで来ている9月にもなだれ込み、別な形で、<シーク&ファウンド>が続く。

 

 

暑さ、ではなく、熱さ

七夕7月7日あたりから、痛い熱さが続いている。私の生きてきた歴史上においても、これほどの熱い夏は初めてだ。夏(8月)に生まれたから、夏男を自認しているが、酸欠になりそうなほど夏いきれがこれほど強いのが特徴で、外出は渋ることになる。


渋谷の街なんぞ、人いきれがひどい、あれは若者でないと生存できない、それを実感している。昨夜も家人と待ち合わせて渋谷で外食、というのも駅ビルから一歩も出ずに、東横店の上のレストラン街のうまくもない、イタメシで、暑気払い、それが精一杯。


QOL関連で、サイクリングの許可が出されたが、もちろん、炎天下の街へこぎ出せという意味ではないことは自明。むしろ、水分を上手に補給できない傾向を指摘されているから、28度設定の空間でこのひとつきのたいていを過ごしている。


そんな拘束生活を彩ったのは、解禁となったクリント・イーストウッドの最新作『15時17分、パリ行き』、新潮クレストブック『戦時の音楽』(レベッカマカーイ、藤井光訳)という短編集。これで、熱い夏、をやり過ごせる、と思う。

空の奥処

『曇天記』、3回読み終えました。しかし、まだ手放す気になれず、ほかの書物に手が伸びる気配もなく、ポツリポツリと拾い読みを繰り返しております。


外出する際にも、必ずバッグに収め、バスや地下鉄や、コーヒーショップなどでバッグから取り出し、手に取り、読み始めます。まるで、この一冊にちりばめられたすべての文章の一つひとつを我が身に血肉化することを目的にするかのように。


中原中也の『在りし日の歌』、その中の「曇天」が発想の元になったことを知ったのは2011年3月11日の<未曾有の惨事>。紋切り型の口調、それを口にする人々のふるまいのいびつさ、表現の水位の、あと戻りできないほどの低下を前にして中也の<黒い 旗が はためくを 見た>を思い浮かべたと著者はあとがきで書いている。


そんな「曇天思考宣言」とでも呼べるあとがきを1回目読んだとき、私は南信州にいた。そのときも、この書物だけを携えて東京を離れた。2年ぶりの南信州のわが家の窓といえる窓を開け放ち、濃密な深夜に読み進めながら、風を、空気の流れを浴びた。


翌日、前日の快晴とはことなり、空は曇天に変わっていた。その際の、空をiPhoneに収めた。私なりの<空の奧処>を見つめていきたい、と考えながら。

 

 

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6月12日、シンガポールでのアフェアについては、ロイター通信のPeter Van Buren 記者の書いた記事が秀逸でした。

舟を漕ぐ

ようやくにして、『引き揚げ三部作』(後藤明生著)を読み終え、本日、あらためて青山三丁目の<青山ブックセンター>まで足を伸ばし、待望の堀江敏幸著『曇天記』を購入、もとの道にたどり着きました。もっとも、この間に半日かけて『久米宏です。』(久米宏著、世界文化社)を読み終えているし、『引き揚げ三部作』を読み終えるのに、ザ・ベストテンニュースステーションの時代を感得することが必要だった、との印象もある。


そうこうしている間に、西城秀樹星由里子らのわが世代にとってのビッグネームの訃報に接する(の、が多い、のの多用、連用との指摘がわがテキストエディットでピーピー警告されており)、星由里子が澄子役で登場の作品で、父親役をしていた有島一郎という役者のイメージが噴出してくる(ああ、やはり書き言葉では、接続詞のは重要)。


昭和を語る、とかいうくくり方が大流行だが、どうもその<昭和>というのは、昭和30年代から平成の初めにかけてのことを言うらしく、釈然としない。昭和一桁から20年まではちょうど今の世の中のような時代が勃興し、昭和20年8月9日以降は『引き揚げ三部作』で描かれるような<空虚>が横溢した時代で、そのいずれをも含めての時代が昭和という総体で、とてもではないが語り尽くせるものではない、はず。


最近(これは平成20年代から今年までを限定するのだが)、これほど書評に取り上げられる新刊は珍しい、『曇天記』。いやな空気や、いやなニュースに接するよりは高邁な曇天世界に漂うべく、逃げ込もうと思う。久米宏が最後の一行で述べていた。<乗りかかった舟は漕がなければならない>。