光陰矢のごとし

師走に入った。光陰矢のごとし、を地で行っているとはこのこと。今、今月末で番組が終わるという<菊地成孔の粋な夜電波>の昨夜(というか、今朝)放送分、ゲストがなんと筒井康隆大先生の回を聞きつつ、義父と婿の会話に聞こえてならない風情がいい。「死ぬのは怖い」という至言を言い放つ84歳の翁。


先週は仕事仲間の一人が急逝、行きたくない通夜に行った。暖かな夜だったのがありがたかった。しばらく前までは、通夜に行き、故人を偲んで精進落としの酒席を楽しんだが、最近は酒をほとんど飲んでいないし、偲びの話などしても仕方あるまいという感じで、早々に引き上げるようになっている。もう一人、仕事仲間の一人が大腸ポリープが見つかったと言うことで、切除入院している件、否が応でも師走感満載のスタート。


書籍は木村元彦さんの名著『悪者見参』、今年のW杯ロシア大会グループリーグ、スイスとセルビアの試合で起きた<事件>を契機に、新たな記述2章分が追加され、<新版>として集英社文庫で発売となった。ユーゴスラビアの歴史はカオスの灯を途絶えることなく続いている、そのことをあらためて知りうることとなった。この本なかったら、ユーゴ情勢など他人事ですんでしまうことになった。ストイコビッチ名古屋グランパス)についてそのプレー以上のことを知りうる、これは木村元彦さんの記述でしか得られないこと、僥倖としか。


『目まいのする散歩』(武田泰淳著・中公文庫)、『半席』(青山文平著・新潮文庫)も読んでいて幸せだった。そして、遭遇したことそのものが僥倖だったのは『ふたつのオリンピック東京1964/2020』(ロバート・ホワイティング著・玉木正之訳・角川書店)。日本戦後史をアメリカ人の目で映し出した歴史書とでも言わないと正確ではない。知り得ない情報満載で、首を何度もひねりながら読み進めている。

ロマンスカーで

ようやく、<木枯らし一号>とか、その先の<冬将軍>という語彙が親近感を持てるような気圧配置、気圧の流れが見えるようになりました。9月初めあたりにかかりつけ医から新薬の処方を提案されていたのだが、俗に言えば<薬漬け>、高尚に言えば<化学生成体質>なるイメージに抵抗を示す自分がおりまして、ペンディングしておりました。


しかし、平成最後の冬を乗り越えるため(などとはつゆも思っておりませんが)、この処方を受け入れ、今週は新しい化学物質をわが体内に<注入>しております。感じはいかが? 確たる変化はありません。


予定していた<秋の南信州行き>をマゴマゴしている間に時期を逸してしまう悔恨はあるものの、日常のQOLを維持し、少しでも代謝量をあげる、生活の維持に努める日々、先週、取材で強羅まで日帰り旅、もできました。


強羅2時、ほぼ1時間ほどの強羅に常住する御仁にインタビューの仕事。昼前のロマンスカーで赴き、箱根湯本で登山電車に乗り換え、約40分ほど乗り到着、ゆったりとしたスケジュール、当日の穏やかな秋日和とも相まって、これぐらいの活動は可能なんだと嬉しくなる。


午後の仕事をあけられるという家人と午後4時に箱根湯本で合流、湯本の日帰り湯を堪能し、夕食をゆったりとり、8時前のロマンスカーで帰京。箱根については熟知している家人のガイドもあったが、久しぶりの旅気分を味わうことができました。来年4月末で長年勤めた仕事をリタイアする家人(どこぞの高貴なご夫妻も同じよう)とはいろいろな旅プランがあるが、それもこれもわが身体の健全にかかっているわけで。


葛谷葉子歌謡の『ロマンスをもう一度』というロマンスカーのテーマ曲を聴きながら。

秋のサーフィン

iPhoneKindleアプリ入れているが、問題はどういう書籍を入れるか、個人的に大いに悩んでいるマターではあります。その試行錯誤を通じて、片岡義男さんの『あとがき』という奇跡的な書籍が刊行され、本で読むのは辛いな、と、本だったら買わないな、そういうカテゴリー(自分流のものではありますが)に属するもので、だったら、電子本ならば買うか?という自問があり、その末に購入&購読。

 

かかりつけ医の待合室で、いつもは2、3人居るぐらいなのに、そのときは10人ほどが群れて、ごった返しておりました。ああ、こういうとき、こういうシチュエーションと思いついて、kindle を開いたのです。片岡さんの自著のあとがきをあつめたもので、これは究極の印税獲得経済活動の範たる内容ですが、別の意味で、非常にマメな方であるから結実したもの、という言い方もできます、はい。

 

一文が2、3ページほどですから、まず、読みやすい。その上に、当たり前ではありますが、1970年代から2010年代まで、10年を単位に章立てしてくれているので、史料としても読めるのですね。これがありがたい。最初の文章、「ぼくはプレスリーが大好き」に始まり、プレスリー関連が続き、2つめの文章を読み終えた頃、診察の順番が来た。

 

その後、プレスリーを久しく聞いてなかったので、あらためて聞き直す日々が続いた。賛美歌を歌わせたら右に出るものはいない、そう感じた。で、私が封切館で見た『エルビス・オンステージ』の記憶がよみがえり、ロックンロールよりもブルースを歌うエルビスを好む個人的性向が明らかとなった。

 

そんな日々が続き、じゃ、この際だ、ビートルズも聞いとく?ということになり、あれやこれやしているうちに、ロン・ハワード監督のドキュメント映画『ザ・ビートルズ Eight Days Week』と衝突してしまった。1963年から1966年までの公演の映像を中心に、ポールやリンゴ、その他関係者の証言などでまとめられたドキュメントだが、その当時、なぜ、ビートルズが時代に受け止められ、世界中の同時代人の琴線を刺激したか、をストレートに、しかも心のひだをあらわにするところに、ロン・ハワードの実力をみせられました。

 

こうして電子本から、映像へ、ネットの時代だからこそのサーフィンをもって時を過ごせる日々、かかりつけ医とは懸案の処方問題が横たわっており、明日あたり、再びKindleの書棚を利用する機会が。そのKindleの書棚、確認してみたら、落合博満『采配』、『赤めだか』立川談春、『木下杢太郎随筆集』、『壇流クッキング』檀一雄、『オシムの言葉木村元彦訳、『移動祝祭日』ヘミングウエイ、『非常識な建築業界ー「どや建築」という病』森山高至、『ヒップホップ・ドリーム』漢a・k・a・GAMI、など雑多に収められており、何か画面が変わり、『決断・実行』落合博満新刊案内の<試し読み>を押したつもりが、ポチッと<購入ボタン>を押してしまいました。

ハズレを引く

ローレンス・ブロックの新作に巡り会え、10月はまさに読書の秋を満喫しておりますが、9月はひどかった。あえて作品名と著者名は明らかにいたしませんが、上下巻5000円を超える大作、ある方の評伝なんですが、著者も大学の教授をなさっているんですから、それなりのクオリティを携えたものであろうと、大枚をはたいて購入してきて、楽しみにひもとけば、同じ事象の事柄を手を替え品を替え、リフレインしている、上下巻、一冊で収められなかった、いわゆる水増し表現、評伝の対象となる方への冒涜ではないのか?と読み進めるウチに腹が立ってしかたなく、途中で放り投げました。


こういう体験、しばらくしてこなかったので、落ち込みました。そんなときに、『泥棒はスプーンを数える』に遭遇したのです。それ以降は、翻訳家・田口俊樹さんの翻訳家デビュー作、『ゲームの名は死』(ダン・J・マーロウ著・ハヤカワポケミス1332)も一気読み、その勢いで、たまたま黒澤明作品に溺れていたら、なんとタイトルが『用心棒』というハヤカワポケミスの新刊が出て居るではないですか。


勿論、原題はThe Bouncer となっているんですが、著者デイビッド・ゴードンは明らかに黒澤明の作品を相当見込んでおり、その痕跡が作品のあちらこちらに。で、解説の杉江松恋氏も、主人公・ジョーは三船敏郎である、と断言しており、そう刷り込まれると、なおさら、この作品が活性化してくるという不思議な読書体験をすることができたのです。


先週からは『蒙古襲来〜転換する社会』(網野善彦著・小学館文庫)というジャンルは異なるものの、今読めば、上品なミステリとして読める、古代から中世(鎌倉幕府の話がメイン)にかけての日本の中世を新たな視点で読み解いた、スリリングにして高邁な、まさに歴史ミステリとして読めるんですよ。網野善彦さんといえば在野の逸材学者、中沢新一さんのおじさんですからね、冒頭の評伝を著した某教授とはひと味もふた味も格調に秀でておるのです。


当たり外れは世の常と申しますが、ハズレを引くことのなかった私ではありますが、ハズレを引いたときの自分を責める惨めさを久しぶりに味わった、読書の秋のスタートでした。

急転直下、『天国と地獄』


9月30日の日曜日と言えば台風24号が本土接近中で、私は家人と6時の待ち合わせのため、5時頃バスで渋谷に向かったのだが、渋谷に着くと、「東急東横店は本日、台風接近のため、午後6時をもって閉店します」とアナウンス。同じく、JR各線ともに午後8時以降運休という知らせが。


駅地下のフードショーには人が集まり、各店舗ともに<在庫一掃セール>を展開中、私とて、こういうときには家人とSNSを用いての相互連絡を行うもので、家人からは5時半の時点で、地下鉄の銀座あたりを通過中というメッセージ、私は6時までに<弁当でも買っておくか?>という返しを。


このやりとりが意味をなさないような行動を私はとり、渋谷の地下街から通路を通り、井の頭線のホーム下に位置する啓文堂書店に移動した。この時点で5時45分、そこで<奇跡の出遭い>をすることになった。文庫本の新刊コーナーで目を疑うような本に出遭う、『泥棒はスプーンを数える』?ううううっと、<泥棒は・・・・>どこかで聞いたフレーズだな、え、ひょっとしてR,ブロック?ありゃ、そうみたい、え?え?え?


もう、著者ローレンス・ブロックの新作には巡り会えない、と勝手に思い込んでいた。でも、しかし、ひょっとして、とずーっと、二見文庫(ブロックの著作は、この出版社から発行されていた)とハヤカワ文庫のコーナーはチェックしていた。しかし、今度は集英社文庫、訳者が田口俊樹さんなので半分、ホッとして。


原作は2013年にアメリカで刊行されていた。しかし、版権料が高かったのか、二見書房が二の足を踏んでいたのか、その点は明らかではないけれど、とにかくブロックの新刊が日の目を見たことに感激。ブロック節は相変わらずで。


主人公は書店経営の傍ら、泥棒も生業としているバーニー・ローデンバー、バーニーの親友で犬の美容師をしているレズのキャロリン・カイザー、この二人の会話がメインとなり、話の膨らみを担当するニューヨーク市警刑事のレイ・カーシュマンが絡む。これだけで、満腹、そういう作品。


作品中の会話の中に、エド・マクベインの87分署シリーズの登場人物が語られ、私は作品を読み終えると(今回は右目の状態は決してよくはないのに、久しぶりに一晩で読み終えました)、エド・マクベインのことを考え、シリーズのなかの『キングの身代金』を黒澤明が映画化し、『天国と地獄』、たまたま、ネットで黒澤明の特集をやっており、見てしまいました。

懐疑と叡智

<懐疑は、恐らくは叡智の始かも知れない、然し、叡智の始まる處に藝術は終るのだ、・・・by アンドレ・ジイド>というのは、小林秀雄の随筆集『様々なる意匠』の巻頭に置かれた惹句だ。


PCのトラックパッドが私同様、経年劣化の兆しが見え始め、日産8000字打ち込むわが作業に支障をきたすようになったので、本日、無線のマウスを購入しに、ビッグカメラへ。


PC、i-pod(携帯音楽再生機)、そしてiPhone4種も含めてわが生涯においてapple社にいかほど注ぎ込んできたか。80年代のMac遭遇以降、MacPCだけでも9台買い換えているから、そして当時のPCは、ましてやMacそのものが1台1台、すべからく高額だったから、2000万円はいかないまでも1500万円ほどは貢いだことは確か。


これに加えて、Macでしか使えないソフト(アプリと最近いうようになった)、グラフィック関連のAdobe社のソフト、編集ソフトQualkXpress、それから当時はフォントを数種類使っていて、いずれも高価なものが多く、数百万円は費やしたと思う。首都圏のどこぞの新築一戸建ての頭金には十分な価額だと思う。


トラックパッドの劣化に過ぎず、本体のMac Book Pro もすでに8年間の長きにわたり、わがハードデイズをともにしてきたから、経年劣化は当然の帰結。そろそろ新機種への買い換えの時期なのかと思う。そんなことをチラと考えつつ、Appleのサイトを覗いたら、<Mac の向こうから>というシリーズ動画があり、これにすっかり魅入ってしまった。

 

f:id:fukahara_itami:20180927170226j:plain


で、なぜか、私の<Mac の向こうから>届いたイメージは、アンドレ・ジイドの惹句を引用した小林秀雄の想念、懐疑は叡智の始まり、にたどり着く。昭和38年の文庫版、発行元はと見れば、今をときめく新潮社だ。活字が見事に紙を圧して刷られている、活字文化の象徴としての、まさしく懐疑が懐疑たり得て、叡智に至り、叡智をわがものとした瞬間から藝術の終わりが始まるなどという想念をありがたく繰り広げていた時代。


今は、<懐疑は、検索という名のエンジンを起動すること>であり、叡智というものに遭遇できるかどうか、微妙ではないか、というのが私の<Mac の向こうから>。

 

 

Seek And Found

懸案の、南信州への<旧盆帰省>を無事過ごすことができ、その前後には東京地方もしのぎやすい気候があったものの、先週来の酷暑ぶり返しにはどんな健全な身体および精神を持ってしても、抗う仕方はただ冷房の恩恵に浴するのみ。


7月に続き、8月も印象としては酷暑だった。その8月も今日で終わり、どうやら、明日以降秋雨前線の影響で、気温としてはしのぎやすくなるという予報。来週半ばの台風が厄介であるような予感はするが。


で、この8月を振り返ってみると、私は一つのテーマをことさらに頭の中でリフレインしながら過ごしてきた。手前味噌になるが、このテーマ、リフレインはわれながらうまくいったと感じている。


テーマは<シーク&ファインド>である。なあ〜んだ、それか、と指摘されるのは承知の上である。<シーク&ファインド>とはおおよその人の、人生におけるありふれたテーマであり、かつ、営みの核心的な手順みたいなものだからだ。


このありふれたテーマ、手法といってもいい、これをにちょっと挑戦しようと思い立ったのは堀江敏幸氏の『その姿の消し方』(新潮文庫)を月初めから携えていたからである。二百ページに満たない短い小説だが、一つずつのセンテンスを読み流してしまうと、ことの顛末を理解できなくなってしまう、そういう濃密にして端正なセンテンスが続く。


フランスの古物市で入手した一枚の古い絵はがき、消印は1938年6月15日、A.Lという男からN.Dという女性に当てて出されたもの。ここから<シーク&ファインド>が始まる。優れたミステリを読み始めた気分だったが、次第に自分が<姿を消すプロセス>、つまりは21世紀のこの時期に生息する私(これは自分のこと)がこの先、どうやって姿を消す、つまりは、どのようにこの生を終え、世の中から姿を消していくか、を常に想像しつつ、読み進めることとなる。


読み始めのミステリ感覚から、読者である私が自らの<消え方>を想像する旅に出るところ、これが<シーク&ファインド>をあらためて意識させられる、そういう小説であり、読書体験だった。


『その姿の消し方』の二度目の読み進めをしたのは、南信州行きの往路のバス車内、隣に座った大学生と思しき若者が、分厚い文庫本を渾々と読み進めるのを意識して読み始めた、珍しい体験。


帰路のバスの隣席は小学2年生の男の子、通路を挟んだ隣席に座る母親に命じられ、夏休みの課題作文を専用ノートにしたためる作業、このバスはだいぶ前に発生した事故による渋滞に巻き込まれ、新宿到着まで述べ7時間を要した。この男の子は八王子あたりで作文を完成させ、それから2時間ほど渾々と眠っていた。珍しい体験。


この男の子に刺激された訳ではないが、私はノートに私なりの<シーク&ファウンド>のためのメモを。私はフランスへは一度も行っていない。古物市で買い物をしたこともない。端緒は、5年前にノートに記したメモ。そこから<シーク&ファウンド>をしているうちに、あっという間に新宿に着いてしまった。


新宿バスタのトイレで、小学2年生の男の子と一緒になった。これから、私などより圧倒的に長い<シーク&ファウンド>をしていく彼に、声こそかけなかったけれど、表情で「元気、でな」っと。


これで<シーク&ファウンド>終わりではなかった。『True Detective』と『The Bridge』のそれぞれシーズン1とシーズン2と遭遇。前者はアメリカ片田舎の警察署が舞台、後者はスエーデンとデンマークの両国の警察官が合同捜査するというもの。何かの縁でこの2作品と出会え、幾重にも<シーク&ファウンド>が重なり、熱されたわが頭の中を、何か言葉にならないものが木霊のように乱反射している。これは8月を終えても、ああ、そこまで来ている9月にもなだれ込み、別な形で、<シーク&ファウンド>が続く。