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誘惑、修羅を上回る

 

三月弥生も10日をを経過、<修羅の三月>は名実を伴っていた。振り返ればわが人生は修羅常套ではあった、修羅上等ともいえた、楽しんでさえいた、これはいささか傲慢な物言いではあるが、本年度のわがテキスト(通年教科書自指定)の大江健三郎『定義集』においては、序盤から読み捨てならぬ逸文がならんでおり、現職官僚や閣僚らにとっても<指定教科書>としてお薦めしたいものであるがいらぬお節介だろう。

二月の終わりから昨日まで、<人間が機械になること・・・>、<繊細な教養の所産が壊される>、<書き直された文章を書き直す>らを熟読し、ああ、大江健三郎さんにとっても相当な修羅をくぐり抜けてこられたのだな、と実感。

教科書とは異なり、映画をずっと見続けているので読書も快感を求めてマニュエル・プイグの『天使の恥部』なんぞを読み終えました。『蜘蛛女のキス』同様、文章が視覚的で、この作品も映画化されたものを見てみたくなる作品でした。

 

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で、映画ですが、縁なんでしょうか、私が『セッション』という作品を見ていたときにBSだかCSだかで同作品が放映されたようで、翌日の文化放送大竹まこと氏が見て感心したと話していた。その文脈は、『セッション』の監督が作った新作『ラ・ラ・ランド』がアカデミー賞有力作であることの延長にあったが、同番組にゲストで出たいとうせいこうは同作もいいが私はこれを推すと『ムーンライト』を紹介し、結果は皆さんご承知のようになりました。個人的には目先の事実より歴史となった作品を見るスタイルなので、『ラ・ラ・ランド』も『ムーンライト』も3年先ぐらいに見る予定。

で、『セッション』が素晴らしく、教授役で助演男優賞を獲得した役者、J.K.シモンズに魅入られた。この役者は、題名は忘れたが女流警察官を主人公にした連続ドラマの皮肉な上司役で見慣れていた。ああ、ここで思い出した、連続ドラマのタイトル、『クローザー』でした。調べたら、出演映画数がハンパでない、日本流に言うところの<名脇役>なんでしょうね。『セッション』を見ていて思ったのは演出家・蜷川幸雄さん、さぞかし、演出中の蜷川さんはこのプロフェッサーのような剣幕だったのでしょう。この作品に魅せられた私は監督・デミアン・チャゼルが脚本を担当したというだけで、『グランドピアノ 狙われた黒鍵』まで見てしまった。映画の基本、シナリオが優れている、『ラ・ラ・ランド』は見ていないが、『セッション』も『グランドピアノ』も楽譜がポイントになっている。三十を過ぎたばかりのデミアン・チャゼル、これから楽しみだ。

素肌、負けないで、ベイビー

地獄の2月も、もうじき終わる。今週末は<🎎>、え?これ、出るの? <ひな祭り>ですわ。つまり3月になります。今週末という言い方は日曜日を週の先頭に措く、最近のカレンダーのならい。土日を週末と言うのと同様、違和感を持つ。

さて、地獄の2月をどう過ごしたか、だが、相も変わらず、映画芸術を満喫して過ごした。『アラビアのロレンス』、『人生劇場・飛車角と吉良常』の2作品をその代表作として挙げておく。1960年代の作品だからゆうに50年前の作品だが、世界は変わっていない。中東の諸々も893の世界の諸々も、クォリティは劣化していることがよくわかる。4時間近い大作の前者は途中、<休憩>がちゃんと用意されていて、しかし、音は流れている、この作品あたりからサウンドトラックというものが登場したのではないか、と小林信彦さんを気取ってみる(苦笑)。アラブの人々にオレントと呼ばれたロレンス中尉(映画の最後には大佐に昇格)が映画の冒頭、バイクで疾走するシーンが5分ほど続き、本編最後で、バイクに乗ったアラブ人が自らが英国に帰国するジープの傍らを追い抜いていくシーンで終わる、このことを忘れていたが、今回あらためて2度見して確認した。ピーター・オトールという役者がロレンス、もとい、オレントという人物そのものを体現した、彼が30歳の時の演技だが、衣装も仕草も、どこからカメラを当ててもその存在感を損なわない、役者というのは<権威の愚行を命懸けの狂気と侠気で、問題をいかに分かりやすくカリカチュアして人々に伝えるか>だという教科書通りの見物でした。

後者は東映ではシリーズで何作も制作されたが、内田叶夢監督を迎えて、鶴田浩二高倉健辰巳柳太郎藤純子らのキャスティングでリメイクしたもの。原作者とおぼしき、小説家であり吉良常の親分の子である若旦那役で先日亡くなった若き松方弘樹が演じている。それもあって見たが、書き割りの人物配置(もちろん、内田叶夢演出によるものだが)が巧妙で、美しい。今話題のいわゆる<港湾利権>を893に振ってのさばる陰者、という構図は明らかに現在の方が劣化しているし、<オールスターキャスト>という観点からも、笑えないけれど、笑ってしまう、つまりは<人物>がいなくなってしまった、それにつきる。こういうことを感じてしまうことこそが<地獄の2月>なのである。

1980年代の終わり頃、つまりは昭和の終わり頃に気に入っていた、『シャ・リオン』という曲に遭遇できたのは<地獄に仏>だった。しかし、この曲を歌っていた河井英里という歌手は10年ほど前亡くなっていたことを今回初めて知った。大島ミチル作曲である。ずっと探していたが、探し方が下手だった。グーグルやアマゾンに頼らなくても探す方法はあった。自らを恥じることにもなった。現在、わがプレイリストにこの『シャ・リオン』とともに、尾崎豊の『ダンスホール』という曲や、ジャクリーヌ・デュ・プレのチェロ協奏曲(ドボルザーク)らの曲で構成、うそ寒い夜明けのサイクリングの帰路バージョンで聞き、地獄を乗り切りつつあります。表題は『今宵あなたに』、サザンのデビューアルバムの最後の曲、その歌詞の中にある。

夢が思い出せない

夢を思い出せない、こんなことはどなたにも数あることだとは思う。しかし、最近の私は<かなりセンセーショナルな夢>を見る。で、目覚めたときには覚えている。そのとき、メモ帳などを用意して書き留めておけばいいものを、まあね、起きたときは、それどころではないわけですよ
。意識は目覚めていても、自己分析的には起きちゃいない、やれタバコに手を伸ばすか、小用にたつか、あるいはヤカンで湯を沸かすか、最近ではまず靴下をはく、これを最初にやりますね。

こんなルーティンをやっているうちに、あれっ?なんだっけ?きれいさっぱり忘れておるのですわ。おおよそのイメージは残っていても、肝心要のディテールが粉砕されている。だから、いかにセンセーショナルであるかさえ、皆さんに伝えることもできない。え?こんなことを夢で見ているんですか?というような意味で<センセーショナル>であることはイメージできるのですが、登場人物の<意外さ>、場所(シチュエーション)の<意外さ>なども思い出せない。医療機器の革新が言われているが、人が見た夢を記録する機器が出来得れば、これほど革新的だと思ったが、これは人工知能よりも難しいことは薄明ですね。

さて、私の持病の方が状況よろしくならず、しばらく<要安静>を命じられました。週に一度、心電図をチェックする経過観察を続けてきましたが、先週末の心電図の波形が如実に悪化、ステージⅡのⅢに近い状況だとかかりつけ医から説明を受けました。Ⅰであれば、日常生活を普通にしてかまわないのだが、Ⅱになると<要安静>、ステージがⅢとなれば、入院の上に<絶対安静>になる、などと書くと簡単すぎますが、この病気は心臓機能の不具合と心理的サムシングが相乗し発する微妙なもので、おまけに確たる自覚症状がほとんどないので厄介。

<センセーショナルな夢>が心理的サムシングに影響を及ぼしているかどうか(笑)が目下最大の関心事。もっとも、信頼しているかかりつけ医ではあるものの、このことを告げるわけにはいかないし。

神宮コンビのニュースドットコムの2月10日号にて、アメリカ、トランプマターを直接論ずる具は犯さず、その背景にあるものと称しつつ、結局はアメリカの成立から今日までの近現代史東京理科大(といってもこの先生の属する基礎工学部というのは北海道長万部にあるらしい)の先生(石川敬史さん)をゲストに迎えて論ずる番組(タイトルは『トランプ政権を操るオルタナ右翼の正体』、決して歴史の長い国ではないのでコンパクトにかついくつかの角度を変えての講義、大いに学び直すことができました。日本史はともかく、中学高校での世界史は近現代を中心の授業をしないと、必要マターな世界観を持てないでいるリスクは大きいと思う。

滑稽について

「地獄の2月」がついに到来した。次には「修羅の3月」が待っており、さらに悪鬼羅刹な4月、魑魅魍魎な5月、混沌としか表現のしようのない6月が続き、一隅の光も見出だせないまま、兵どもが夢のあとな7月となるのだろう。早く8月になって欲しい、・・・、と例年思ってやり過ごしてきた、が、昨今は、そんな大それた思い上がった<やり過ごし方>など思ってもみない、日々好日、である。

最低気温が氷点下になる東京で寒さを愚痴ってみても、日本海側や北海道で過ごす冬を想像すれば、せんかたないのであり、最高気温が20度を超す月曜日なんぞを体験してみれば、暦というものに気候がおいついてきたのか、もほや春と思い、息吹を感受していくことの喜びを味わった方がいいとさえ思う昨日今日であります。

今年は、昨年暮れ思いついて<教科書>を携えた日々を送っており、その教科書とは大江健三郎『定義集』(朝日文庫)であります。72編のエッセイが収められた評論的エッセイ集、1編1編を丁寧に読んでいると、今日言われている<情報>とは異なる、本来の意味を持つ<情報>や、その<情報>がもたらすヒントに巡り会えるわけで。その<情報>や<情報>がもたらすヒントに触発されて個人的にわいてくるものを追い、そのラインを自分流に脇道をたどっていく、そんな試みを自らに課して、日々を送る、そういうことなのであり。

3つめの文章にある『滑稽を受容することとその反対』を読むと、あら不思議、1月20日以降の世界観に大いに隣接するテーマが見事に読み解ける図式が浮かび上がってきます。義弟である伊丹十三との邂逅、『世界滑稽名作選』やら、そして中野重治著作を通じて、<滑稽>について語るわずか3ページほどの文章ですが、そこからこぼれ落ちたり、にじみ出たり、わいて出てくるイメージは一筋縄ではいきません。

ま、いろいろ、あった、のですが、個人的に映画『グランド・ブダペスト・ホテル』に行き着いたことに大いに満足しています。3年ほど前の作品ですが、<やむを得ぬ滑稽と、それを受け止めようとする心、そしてその逆の残酷。滑稽であるほかない窮境にある者を、さらに残酷さの縁に落とすか、人間らしい崖っぷちへ引き戻してやるか>という滑稽試論にジャストミートな佳品に出会えたことで、滑稽は人に喜びをもたらす、などとジョージ・オーウェル『1984年』とは遠いところで思ったりしております。

二昔前、を想う

今週見た映画では、『大統領の陰謀』(1976年)、『レスラー』(2008年)の2作が秀逸だった。いずれも初見であり、『大統領の陰謀』はいわゆるウォーターゲート事件をスクープしたワシントンポストの若手記者(ロバートレッドフォード、ダスティンホフマン)の活躍をノンフィクションスタイルで靜逸に描いた作品、これほどの映画を1976年当時の自分が、話題にもなったろうになぜ見なかったのかが不明。40年前の自分は公私に多忙だった、主演の二人と同様、若手でしたからね。

一方、『レスラー』はバブル期に公開された『ナインハーフ』や、『エンゼルハート』でスターダムにのし上がったものの、その後、パタリと姿を見なくなったミッキーロークがようやく俳優になったな、と頷ける演技、これなくして作品そのものが凡庸となるのに、当時の容貌とはすっかり異なり、最初に出てきたとき、え?これがミッキーローク?と思わせる老いとは別の変貌に驚いた、しかも主人公そのものがミッキーロークと重なって見える、C級エンタテインメントであるどさ回りのプロレスラー、かつて(1980年代)一世を風靡した主人公が、娘にも見放され、心臓疾患にも襲われ、このままでは自分の人生の在処そのものを失ってしまう、そういう境地で、ファイナルエヴェントに望む。単館上映だったこともあり、見逃したが、例の神宮コンビがあまりに過剰に推薦するので見たのですが、やあ、見てよかったです。

東京は雪が降るのか降らないのか、小寒い曇り空の大寒の日ですが、これから厚着をして、エビカンへ打ち合わせに向かいます。

偶然について

ディック・フランシスの未読の最後の作品、『審判』を読了。『再起』からいわゆる晩年の6作品をドンドン読み、楽しんだ。楽しむだけでなく、大いに学べるのが彼の作品で、この『審判』では主人公が弁護士なので、法廷、裁判、陪審員らについての法曹基礎知識はもちろんのこと、昔、世界史で習った<マグナカルタ>について、あらためて講義を受けた気分、さらには次のような記述もあり、偶然などめったにないことを十二分に認識させられた後、偶然が主人公の窮地を救うのだから。

<・・・とにかく、偶然などというのは気に入らない。もっとも、そのこと自体、証拠として使えるはずはない。なにしろ、偶然は起こりうるのだ。暗殺されたアメリカ大統領、エイブラハム・リンカーンジョン・F・ケネディにまつわる偶然の一致を考えてみればいい。リンカーンにはケネディという名前の秘書がおり、ケネディにはリンカーンという名前の秘書がいた。そして二人とも、ジョンソン副大統領によって引き継がれている。それでも、やはり偶然というのは気に入らない。・・・>

年末年始、<正しく、ではなく楽しく生きよ>、と諭された身としては、とりあえず、読書においては楽しみを享受できました。

キツネにだまされなくなった

今日は元旦に続いてのぞろ目の日。先週土曜日更新のビデオニュースドットコムを見ている、新年初めての回は『座席争いからの離脱のすすめ』と題して、哲学(万物学)者・内山節氏を招いての番組をチェック。生の内山氏を見るのははじめて。かつて『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という名著を読んで、すばらしき納得を味わったことを覚えている。この名著が刊行されてもう10年も経つんだ。名著では日本の文化は1965年に大きな転機があったと指摘されていますが、世田谷・経堂に生まれた内山氏は新宿高校を卒業後、70年代に群馬県上野村に移住し、独学の哲学研鑽、という履歴が披露されると、米も野菜も作れない山の傾斜地に位置する上野村では明治期、多くの炭焼き人が移り住んだという話を始める。久々に私は『スミヤキストQの冒険』(倉橋由美子)を連想したりして。

国家が人々の幸福を保障できる時代がとうの昔に終わっていることを認識することが重要、といって始まった鼎談、以下、内山氏の骨子抜粋。

グローバル化の進展で先進国は軒並み、これ以上大きな経済成長が期待できない状況に陥っており、この停滞は単純なものではない。無理に成長を実現しようとすれば、弱いセクターを次々と切り捨てていくしかない。当然、格差は広がり、共同体は空洞化し、社会は不安定化する。

 これまでの考え方を根本から変える必要性を強調する。国家がわれわれを幸せにすることができないことが明らかになった今、この際つまらない座席争いからは離脱し、自らの足で立ち、自ら何かを作る作業に携わってみてはどうか。それは単なる「物作り」とか「手に職を」といった類いのものだけではなく、例えば共同体を作るといった作業も含まれる。

 これまでの方法で国家が人々を幸せにできなくなった時、人々は2つの選択肢に頼るようになる。一つは、これまでのルールや価値観を曲げてでも、より強いリーダーシップを発揮できる指導者を待望することであり、もう一つが、新たな枠組みを模索する動きだ。その2つの動きのうち、今後、どちらが優勢になるかはわからない。しかし、これまでの民主的な政府にはもはや寄りかかれそうもないので、より強権的な指導者を待望するというのは、少々危ういように思えてならない。どうせやるのなら、新しい時代を切り開くムーブメントに自分なりの方法で参加してみてはどうだろうか。>

かつてショーペンハウエルが「自己実現」というパラフレーズに難色を示したように、内山氏もこの言葉の誤謬について指摘、ほぼ宮台センセと同様のモバイル(自分の役割を実践すること、私的造語)をすすめる。正しくは「ムーバイル」かも。

いずれにしても、新聞テレビなんぞは頼るすべもなく、この神保哲生宮台真司の神宮コンビが提供する『ビデオニュースドットコム』と上杉隆の『ニュースオプエド』、『リテラシー』をチェックしつつ、ムーバイルしていくつもり。新聞一紙の購読料よりよほど安く、内容充実。とりわけ、神宮コンビの映画案件と『ニュースオプエド』月曜日(玉木正之氏担当)は外さない。しかし、うっかりしていると、昨年11月号のユリイカという雑誌が<みうらじゅん>を特集していることを見逃している、などという肩すかしを食らう、そういうのが今、だと思う。みうらじゅんといえば、文化放送いとうせいこうと一緒にやっている番組は面白い。同じ意味で面白いのは、月曜深夜のTBS、<東京ポッド許可局>。サンキュー・タツオ、プチ鹿島マキタスポーツの<売れない3人>がポッドキャスティングしていたものを、TBSが地上波に載せたという異例番組。テレビ、新聞はスルーするけどラジオだけはそういうわけにはいかない、掘り出し物が多いのです。